そこには、桃の木を見上げる龍宗の背中があった。


 気配に気づいて、龍宗が振り返る。璃鈴と目が合うと、気まずそうに龍宗が口を開いた。

「起こしてしまったか」

 その息が白い。


「龍宗様……?」

「桃が、見ごろだ」

 そう言うと、龍宗はまた桃の枝を見上げてしまう。月明かりに照らされて、枝についた花が薄闇の中に白く浮かんでいる。


「そうですね」

「後宮の南に、桃園があるのを知っているか?」

「いえ……まだ、見たことはありません」

「そうか。では、朝になったら見に行こう。一緒に」

「龍宗様、お仕事は?」

 戸惑う璃鈴を振り向くと、さく、と芝を踏んで龍宗が近づいてくる。


「明日は午後からだ。……先ほどは、すまなかった」

 璃鈴の泣きはらした瞼を、龍宗は指でそっとなぞる。

「妃の後宮入りは、官吏が勝手にやったことだ。だから一度も、俺はあれらのもとへは行っていない」

 静かな龍宗の声に、今度は璃鈴も素直にその言葉を受け取った。


「龍宗様が望んだことではなかったのですか?」

「ああ。俺も知らなかった。国費を使わずすべて私財で賄ったと言われれば、経費削減という俺の反論は弱い。とにかく妃を置けば、いずれ手がついて後継の問題も明るくなるとでも思っているのだろう」

 いまさらながら、それが後宮という場所の役割だと痛いほどに認識して、璃鈴は言葉を詰まらせる。

 その璃鈴の腰を抱き寄せて、龍宗はすべらかな頬を片手で包んだ。


「化粧などしなくても、お前は十分美しいぞ」

「……気づいていらしたのですか?」

「もちろん」

(だったらさっき何とか言ってくれてもよかったのに)

 ぷ、と頬を膨らませた璃鈴に、龍宗は笑う。


「璃鈴。妬いてくれたか?」

「妬いて……とは?」

 意味がわからず、璃鈴はきょとんとする。龍宗は、先ほどまでの荒ぶる感情が嘘のように凪いでいるのを感じた。見上げてくる澄んだ瞳が、こんなにも愛おしい。

 くるくると変わるその表情こそ、化粧よりもよほど璃鈴の美しさを際立たせる。


「俺が、他の妃に触れるのは嫌だったか?」

 璃鈴は、龍宗と言い争った時の胸の痛みを思い出してもの憂げに目を伏せる。

「はい。なぜでしょう。その場面を想像しただけで胸が痛みます」

「それは、嫉妬、だ」

 耳慣れない言葉に、璃鈴は顔をあげた。


「嫉妬……?」

「俺を他の妃に渡したくないと思う感情。それが、嫉妬だ」

 確かに言われてみれば、それが苦しい胸の原因だ。しかしそんな気持ちは、後宮の妃としては持ってはいけない感情だという事も璃鈴はわかっている。

 璃鈴は、すがるように龍宗の袖をつかんだ。


「でも、ここは後宮です。他の妃に触れて欲しくないなんて、そのようなわがままは申せません」

「言って欲しいと思う俺もわがままなのだから、ちょうどいい。……お前だけは、言っていい。俺が聞きたいのだ。俺を欲しがれ。俺のことを、愛しているのだろう?」

 その言葉に、璃鈴は胸をつかれた。


(愛している……? 私が、龍宗様を?)

 璃鈴は、秋華が好きだ。里のみんなが好きだ。独占欲のない愛しか知らない璃鈴が、嫉妬を胸にはらむほどに誰かを深く愛したのは、これが初めてだった。


「違うのか?」

 間近に見える龍宗の目は、璃鈴が初めて見る優しい色をしていた。

「私は」

「愛して、いるのだろう?」

「私、は……」

 言いながら龍宗は、璃鈴に顔を近づけていく。あまりの至近距離に、璃鈴がその緊張に耐えられず、ぎゅ、と目を閉じると、二人の唇が静かに重なり合った。




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「璃鈴様、お起きになっておられますか?」



 一夜が明けた。

 夕べの事もあり、少し早めに秋華は璃鈴の部屋にやってきた。声をかけて、やけに部屋の中が冷えていることに気づく。


「璃鈴様……?」

 おそるおそるのぞきこんだ寝床の中に、璃鈴の姿がない。

「璃鈴様?!」

 不安になって秋華があたりを見回すと、庭へ続く扉が開いていた。急いで外に出た秋華は、意外な光景を目にして思わず微笑んだ。


「まあ」

 咲きほこる桃の木の根元に、璃鈴と龍宗が二人、幹にもたれて寄り添い眠っていた。とても、穏やかな表情で。