雨の巫女は龍王の初恋に舞う

 ぐ、と体重をかけられた璃鈴は、反射的に思い切り龍宗を突き飛ばした。

「うおっ?!」

「何をなさいます?!」

 璃鈴のそんな行動をまったく予測していなかった龍宗は、あっさりと長椅子から転げ落ちてしまった。体を起こして、ため息をつく。


「……それはこっちの台詞だ」

「い……いくら夫婦とはいえ、こんな乱暴な仕打ちをうけるいわれはありません!!」

「なに?」

 床に座り込んだままの龍宗を、長椅子に起き上った璃鈴は真っ赤な顔で怒鳴りつける。


「私は陛下に危害を加えたりはいたしません! なのに……なぜこんな無法者に対するような乱暴な仕打ちをはたらくのですか?!」

「は? いや、お前……」

 何かを言いかけた龍宗が言葉を切った。握りこぶしを作った璃鈴の腕が震えていることに気づいたのだ。 


 璃鈴は、初めて触れた男性の体に恐怖を感じていた。

 自分を簡単に抱え込んだ力強い腕。まるで板のような硬い体。油断していたから璃鈴でも突き飛ばすことができたが、もし本気で押さえつけられたらそんなことはできなかった。璃鈴が触れたのは、そう確信するだけの重い筋肉。見下ろす瞳は、いつか見たような強烈さで、間近な分、その熱が恐ろしいほどに伝わってきた。

 龍宗がなにをしようとしたのかを知らない璃鈴にとって、それは本能的な恐怖となって彼女を襲った。


 鼻息も荒い璃鈴の様子を見ながら龍宗は、しばらく何か思いめぐらせていた。そしてゆっくり立ち上がる。

「そうか。驚かせて悪かった。お前がおびえるようなことはもうしない、安心しろ」

「え? ……あ、はい」

 先ほどの強い視線は、嘘のように龍宗の瞳から消えていた。その落差に、璃鈴はきょとんと返事をする。


「……何も、知らないのか」

 ぽつんと呟いて前髪をかきあげた龍宗を、璃鈴はあどけなく見上げた。

「何を、ですか?」

「いや、いい。こちらの話だ。お前は、今夜、どうしろと言われた?」

「今夜ですか? 何事も、陛下の思し召しの……ように、と……」

 思い出して璃鈴は、今度は青くなった。


(わ、私、陛下を思い切り突き飛ばしちゃった!)

 龍宗は、きっと何かをしようとしていた。そのことに思い至らず、璃鈴は自分の感じた恐怖に従って龍宗を拒絶してしまったのだ。


「も、申し訳ありません! 私……」

「気にするな」

 あわてて長椅子から飛び降りた璃鈴は、その場に伏せる。すると、龍宗もその場に膝をついて、そ、と璃鈴の髪に触れた。

「徐々に慣れていけばいい」

 璃鈴が顔をあげると、穏やかな表情になった龍宗と目が合った。


 婚儀の時に見た冷たい視線でも、さきほどの威圧的な視線でもない。微かに笑んだその顔は、璃鈴をいたわるように優しかった。

「陛下……」

「だが、せっかくの初夜だ。少しくらいは許せ」

 言うが早いか、龍宗は璃鈴の体を両手で抱えて抱きあげると立ち上がった。


「きゃ……」

 驚く璃鈴だが、何事も龍宗の思し召しのままに、という秋華の言葉を思い出して、今度は、じ、としていた。龍宗はそのまま、天蓋のかけられた寝床へと璃鈴を抱いていく。

 小さい体を縮こまらせて、璃鈴は強く目をつぶった。


(大丈夫。乱暴はしないとさっき約束してくださったもの。何をされるかわからないのが怖いけれど……きっと大丈夫)

 龍宗は、震える璃鈴を柔らかい褥の上にそっと横たえた。そして、璃鈴の首元の衣をくつろげると、そこへと顔を近づける。

「……!」

 ちくり、と鋭い痛みを喉元に感じた璃鈴は、思わず声を上げそうになった。

 けれど、その痛みも一瞬。龍宗は璃鈴から体を離すと、乱れた璃鈴の黒髪を、そっとその手で払いながら穏やかな声で言った。


「今宵は、これ以上は何もしない。お前も、次々と新しいことばかりで、ゆっくり休む時間が必要だろう。外聞がある故共寝はせざるを得ないが、お前の眠りを邪魔することはしない。安心して眠るがいい」

 そう言って立ち上がると、龍宗自ら明かりを消した。そしてまた褥へともどってくると、再び体をこわばらせた璃鈴の隣へもぐりこむ。じきに規則正しい寝息が聞こえてきた。


 璃鈴は、無言で隣に眠る龍宗を見つめていた。龍宗が眠ってしまったのを確認すると、ようやく体の力を抜く。

(とりあえず、これでいいのかしら)

 同じ布団で眠っているのだから、これで初夜は無事に終わったのだろうと安堵する。すると璃鈴にも強烈な眠気が襲ってきた。連日の慣れない旅に加え、今日は朝から一日、婚儀の準備で忙しかったのだ。隣に眠る龍宗にほんのりと感じる体温が、さらに眠気を誘う。


(お母様……)

 里に入る前は、璃鈴もこうして父や母の体温を感じて眠っていたことを思い出した。龍宗の温かさに懐かしさを感じながら、璃鈴は瞬く間に深い眠りへと落ちていった。


 璃鈴が眠り込んでしばらくすると、龍宗がむくりと体を起こした。彼は、眠ってはいなかった。隣で眠っている璃鈴を、じ、と見下ろす。

 そうして深い溜息をつくと、そのまま仰向けにごろりと寝転んで暗い天井を見つめた。龍宗はその夜、眠ることはなかった。


  ☆


「おはようございます。璃鈴様」

 声をかけられて、璃鈴は目を覚ました。

 あたりはすっかり明るくなっている。ぐっすりと眠った璃鈴に、昨日の疲れは残っていなかった。隣に眠っていた龍宗はすでにいない。布団がひんやりとしているところをみれば、かなり前に起きたようだ。


「おはよう、秋華。陛下は、もうお目覚めなのね」

「はい。早くに宮城に戻られましたよ。今日も朝から朝議があるのですって」

「そう」

 璃鈴は、龍宗に目覚めの挨拶ができなかったことが少しばかり寂しかった。

(明日はちゃんと早くに起きて、陛下におはようって言おう)


 心配していた初夜を無事に乗り切ったことで、璃鈴の心には少しだけ余裕が生まれていた。怖いと思っていた龍宗だが、璃鈴のことをちゃんと気遣ってくれる人だということもわかった。

(もっとお話をしたい。そうしたらきっと、陛下に近づける気がするもの)


 起きてきた璃鈴を見て、一瞬だけ秋華は動きをとめる。

「……どうかした?」

「あ、いえ」

 璃鈴の寝衣の胸元は、夕べ龍宗に開かれたままになっていた。そこにあった朱色のしるしに、秋華は頬を染める。璃鈴より年上の秋華は、初夜の床で何があるのかを詳しく知っていた。だが、褥を片付けようとして、そこに乙女の印がないことに気づく。


「……璃鈴様、夕べは陛下と一緒に眠られたのですよね?」

「ええ」

「あの……こう聞いてはなんですが……きちんと、夫婦となられたのでしょうか」

 なぜか頬を染めながら聞いた秋華を見て、璃鈴は首をかしげる。

「きちんと……? って、どういうことかしら」

「その、陛下は璃鈴様の肌に、触れられたのですよね?」

 さらに赤くなった秋華を見ながら璃鈴は思い出す。


「そういえば、首元に唇をお付けになったわね。ちくりと何か痛んだから、私、噛まれたのかしら」

「……それだけ、ですか?」

「ええ。その後は、ぐっすりとお休みになっておられたし」

 ということは、夫婦の契りはなかったということだろうか。けれどそこに所有の印があるということは、いずれはそうなるという龍宗の意思の現れなのかもしれない。秋華は、昨日は陛下もお疲れだったし、と納得しかけて、ふいに気づいた。


「あの、璃鈴様は十六歳になった日にここへと発たれたのですよね」

「ええ。そういえば、あの夜はみんなでお祝いをしてくれるはずだったのに、残念だわ」

 つい一週間ほど前の事なのに、もうすっかりと昔の事のような気がする。懐かしく思い出す璃鈴とは反対に、秋華の顔が青ざめた。

「あの、失礼ですが、長老様から房の講習については……」

「受けないまま来てしまったわね。でもなんとかなったから大丈夫よ。私たち、無事に夫婦になれたわ」

 実はなんとかなっていないことを、璃鈴は知らない。秋華は頭を抱えた。



 では、これは私が教えなければいけないことなのか。

 必要なこととはいえ、秋華とてまだなんの経験もない乙女だ。どうやって伝えればいいというのだろう。 


 一人悩む秋華をよそに、朝食の用意をしようと次々に女官たちが部屋に訪れる。彼女たちも璃鈴の首に残るしるしをちらちらと確認して、皇帝夫妻が正しく夫婦となったことを疑わなかった。


 けれど、それからしばらく、龍宗は璃鈴の部屋を訪なうことはなかった。

「ねえ秋華、何かやることないかしら」


 昼餉を終えた璃鈴が、大きく伸びをしながら言った。皇后としてはあまり褒められた格好ではない。

 後宮に入った璃鈴には、今のところ夫を待つ以外にやることは何もない。本来行動的な璃鈴は、一週間で後宮の生活に飽きてしまった。


 妃嬪がもっと大勢いれば、茶会をしたり宴を催したりすることもできるが、この後宮にはまだ璃鈴しか妃はいない。里にいた時のように、女同士でおしゃべりを楽しむようなこともまだできない。秋華は秋華で侍女としての仕事に忙しく、一日璃鈴と話し込んでいるわけにもいかない。

 なにより、璃鈴が相手をするべき龍宗が、初夜に訪れたきりであれから顔を見せてはいなかった。 


「やること……ですか」

 一人で体操を始めた璃鈴を見ながら、秋華は苦笑して言った。

「では、刺繍など、いかがですか?」

「そういうのじゃなくて。もっとこう……わくわくするというか……」

「陛下に歌などお読みになっては?」

「えー……」

 わざと璃鈴の意図を外して答える秋華に、璃鈴はふてくされた顔をする。

 だが、周りの雰囲気に気づいていない様子の璃鈴に、秋華は安堵した。


 璃鈴は気づいていないが、新婚の妻のもとに夫がおとずれたのが初夜のたった一晩きりということで、まわりの女官たちの璃鈴を見る目がどことなくそらぞらしくなってきていた。

 たとえ皇后といえど、陛下の寵愛を得られないならこの後宮ではなんの力も持てないただの小娘だ。

「早く陛下がいらせられたらよいのですけれど…」

 ぽつりと言った秋華に、璃鈴が、ぱ、と顔を輝かせる。


「ねえ。陛下がいらっしゃらないなら、こちらから会いに行きましょうよ」

「だめです」

「なんで?」

「なんでって……陛下は、毎日遊んでいるわけではないのですよ? 特に今はお仕事がお忙しいらしいですから、お邪魔になるようなことは慎まないと」

「ちょっと顔見るくらいならいいじゃない。もし会えなくても、宮城の方はまだ行ったことないんだもの。ずっとここに籠っていてもやることがないわ」

「皇后はそれでいいんです! とにかくっ、私は尚宮に呼ばれておりますので行ってまいります。璃鈴様はおとなしく書でも読んでいてください」

 そう言って秋華は部屋を出て行った。


 一人で部屋に残された璃鈴はちらとも書に視線を走らせることなく、庭への扉をあけた。

「部屋にいろとは言われてないもんね」

 たとえ後宮内といえど、璃鈴が出歩くときには必ず秋華がついていてくれた。後宮の妃とはそういうものらしい。

 一人でも大丈夫なのに、と思いながら紅華は庭にでる。

「うん。やっぱりこの景色は悪くないわね」


 璃鈴の部屋の前には、見事な庭石や各種の木が植えてある風流な庭があり、その向こうには大きな池があった。ところどころに水草の生えている池は澄んで美しく、自分の部屋から見えるこの景色を璃鈴は気に入っていた。

 部屋の反対に位置する湖上には、小さな神楽がある。することもない璃鈴は、その池の周りを散歩することを最近の日課としていた。

 今日もその道を歩いていると、璃鈴はこちらへ向かってくる数人の人影に気づいた。みんななにやら手に荷物を抱えている。
「あら」

 璃鈴が立ち止まると、向こうも気づいてその場で膝をついた。三人の女官の他に、一人だけ、男性がいる。後宮のここまで入ることを許されている男性は、龍宗を除けばたった一人だ。

「飛燕様」 

「久しゅうございます、皇后様」

 彼は、龍宗の側近だ。里からの道中をずっと護衛してきたのがこの飛燕で、璃鈴も秋華もその穏やかな気立てにすっかりなじんでいた。物静かだが、芯の強そうな青年だった。


「今日は陛下のご用でございますか?」

「いえ。用といえば、皇后様の」

「私の?」

「はい。入宮されたばかりで申し訳ありませんが、近日中に皇后様に舞の奉納をお願いしたいのです。本日はその準備のためにまいりました」

「雨ごいですね」

 淡々と話す飛燕の言葉に、璃鈴は表情を引き締めた。


 皇后となった巫女は、結婚しても輝加国の雨の巫女としての役目を続ける。必要がある時には、雨ごいの舞を奉納するのが仕事だ。池の上にある神楽は、その舞を舞うための皇后のためだけの舞台だった。

「はい。占いの者が、ただ今吉日を読んでいるところです。日が決まりましたら、あらためてお願いに参ります」

「わかりました。あの……」

「なんでしょう」

「陛下は、お忙しいのでしょうか?」

 不安そうに聞いた璃鈴に、飛燕は、ふ、と表情を緩めて苦笑した。


「とても。もともと陛下はご自分一人で要務をこなしてしまうきらいがあるため、仕事がたまってくると宮城を出る暇がなくなります。まさに今がその状況にあられて、皇后様にはお寂しい思いをさせてしまいましたね」

「寂しいだなんて……」

 璃鈴は、あわてて首を振る。自分が、忙しい龍宗のことも理解せずに駄々をこねる子供のように思えて急に恥ずかしくなったのだ。


 その様子を、飛燕は微笑ましく見守る。

「今夜こそは陛下を皇后様のもとにお返しするとお約束しましょう。そろそろ陛下もゆっくり休まれた方が良いかと思っていたところです。どうか、陛下をよろしくお願いいたします」

「……はい」

 今夜、龍宗に会える。

 それが分かると、とたんに璃鈴の胸は高鳴った。


  ☆


 秋華は、後宮の廊下を歩いていた。尚宮の用事は、璃鈴の舞の事だった。

 妃の仕事はその階級に応じて様々なものがあるが、輝加国においての皇后の仕事は、雨ごいの舞を奉納することである。この国で皇后の地位は雨の巫女に限られるので、それ以外の仕事はほとんど分担されていない。

 廊下に響くのは秋華の足音だけで、あたりに人影はなかった。

 内宮に位置する後宮には、過去一番多い時は数千人もの妃嬪がひしめいていたという。けれど、徐々にその数も減っていき、先帝の時代には十人にも満たない数になっていた。そして今は、まだこの広い後宮には皇后である璃鈴しかいない。必然、女官や下働きの者もまだ少なく、後宮内は静かだった。

「早く他の妃も入宮させないと」

 ふいに、苛立ったような高い声がどこからか聞こえて、秋華は足を止めた。

「ご婚儀から一週間、陛下が皇后のもとを訪れたのは、わずか一晩。これではお世継ぎも期待できませぬ」

「所詮、世間知らずの巫女ふぜい。形だけの皇后にすぎぬからな」

 聞こえた声に、秋華は息を飲む。それは、後宮にいるはずのない男の声だったのだ。中年と思しきその声は、後宮に入ることを許されている飛燕のものでないことはすぐに分かった。

 あたりを見回すと、どうもその会話が聞こえてくるのは、後宮の入り口に近い一室だ。皇帝の私室も近く、急用のある官吏などが訪れてもおかしくはない。だが、話の内容と相まって、その男の声は異質に聞こえた。
「なに、他に妃をいれる手はずはすでに整っている。近いうちに、この後宮にもあんな子供ではなく見目麗しい妃がそろうことだろう」

 どうもその内容が璃鈴の事を話していると気づいた秋華は、気配を殺してその話に耳を傾ける。

「ようやくですね。本来なら、皇帝がご即位する折には大勢の妃嬪をそろえて華やかに陛下をお迎えするはずだったのに……なにより、皇太子がいない今、御子に関する問題を陛下は甘く考えすぎです」

 それは、確かに輝加国が抱える大きな問題の一つだった。


 今の輝加国には、皇太子がいない。

 二十年ほど前のことだ。今の皇帝がまだ皇太子だったころに、後宮内で毒殺騒ぎがあった。
 数人の妃が手を組んで、皇后とその子どもたちの殺害を企てたのだ。幸い幼い龍宗に害は及ばなかったが、生まれたばかりの龍宗の弟が亡くなり、皇后にも重い後遺症を残した。激しく怒った皇帝は当該の妃たちを死罪。皇后をのぞいた残りの妃嬪も身一つですべて後宮追放にした。
 その後、新しく妃嬪は増えたが皇帝が通うことはなく、龍宗以外の皇帝の子が産まれることもなかった。

「そうだな。去年は皇帝に即位したばかりでまずは国を落ち着けてから、と言われ、神族の巫女すら娶らないのに他の妃嬪を入れろ、とは言えなかった。あれから一年待ったのだ。これから新しい妃がそろえば、陛下の目も自然とそちらに向くことだろう。陛下とて立派な男だ。あんな子供のような妃では、物足りないだろうからな」

「あの娘」

 忌々しそうな女性の声がする。


「神族の皇后という事を鼻にかけて、全く生意気なこと。やはり、あのままにしておくのは、陛下のためにもよろしくないのでは」

「やはり、妃の件と同時に例の件も進めるべきだな。ふさわしい女官の目星をつけておけ」

「かしこまりましたわ」

 は、と秋華が気づいた時には遅く、いきなり目の前の扉が開いた。身を隠すこともできず、秋華は出てきた男と顔を合わせてしまう。

 恰幅の良い中年の男だった。服装からして官吏だろう。向こうもそこに人がいるとは思わなかったのか、ぎょっとして足を止めた。


「お前は……」

 何かを言われる前に、秋華は頭を下げてその前を通り過ぎようとした。その手を、男がつかむ。

「聞いていたな」

「いいえ。何も」

 目をそらして秋華は言った。嘘とはすぐにわかるだろう。だからといって話の内容を考えれば、聞いていたなどと正直に答えることもできない。


「お前は確か、皇后の侍女であったな。名は」

「……秋華と申します」

 秋華はすでに雨の巫女ではないが、特殊な事情のためにやはり姓を持たない。

「ふむ。『次の巫女』か」

 言われて、秋華は思わず男を振り向いていた。その言葉を知っているとなれば、かなりの高官に違いない。ただ、だからと言ってこんな風にあからさまに口にしてはならない言葉だ。男は、にやりとその顔に笑みを浮かべる。

「ちょうどいい。少し、お前と話がしたい」

「私は……」

「なに、たいしたことではない。お前にも悪い話ではないぞ」

 掴まれた腕の力は強く、秋華では振りほどけない。そうして秋華は、その部屋へと無理やりに連れ込まれてしまった。


  ☆


 夜になると、飛燕が約束した通り龍宗がやってきた。

「お疲れ様でございました」

 今日も龍宗の顔には、疲労の色が濃くのっている。

 議会などが始まれば、龍宗は自分の部屋にすら戻ってこないことがしょっちゅうあるらしい。秋華が女官から聞いたと話してくれていた。
 どさりと長椅子に腰掛けた龍宗に、璃鈴は熱いお茶を差し出す。

「疲労によいお茶だそうですわ。どうぞ」

 ふくいくとした香りのそれを、龍宗はじ、と見つめる。

「陛下?」

「……ああ。どうだ、後宮の生活は」

 龍宗は、茶に手をつけないまま璃鈴に向き直った。


 里の生活は、常に質素だった。それに比べて後宮は、璃鈴が初めて見るものばかりで溢れていた。細かい彫刻の施された柱、凝った刺繍の天幕。朝に夕に、見たこともない豪華な食事が供され、どこにいっても上品な香が焚かれている。

 何を見ても珍しく、あれはなにこれは、とおつきの女官たちに聞いては、秋華にはしたない、と諌められていた。


「あちこち見させていただきましたが、初めて見るものばかりでとても楽しいです。その中でも、大きな池の上にあった神楽のことが一番」

「見たのか。あれは、お前のためのものだ」

「近日中に、そちらで舞を奉納いたします」

「ああ。頼む」

 そう言って、じ、と龍宗は璃鈴を見つめた。


「舞を……」

「はい?」

「舞を、舞ってくれぬか」

 唐突な申し出に、璃鈴は目を丸くした。

「今ですか?」

「ああ。お前の舞姿が見たい」

 思いがけず龍宗にねだられて、璃鈴の鼓動がとくりと小さく鳴った。

 巫女の舞は娯楽ではないので、本来は人に見せるものではない。特別な場合にのみ、通常の雨ごいの舞とは別の舞を舞うこともある。龍宗が巫女の里で見たのも、その一部だ。

 その舞をねだられたことが、璃鈴は嬉しかった。

 神族の娘として、また今は皇后として、舞は大切な仕事であり璃鈴のすべてでもあった。舞にはそれぞれ意味があり、璃鈴が里で覚えた舞は五十通り以上にもなる。そのすべてを間違えないように、何度も何度もくり返し覚えるのだ。

 他に何もないとしても、舞ができること。それは、璃鈴の誇りだった。


「ええと、では……」

 羽扇を取り出して姿勢を正すと、気持ちを落ち着けて璃鈴は舞い始めた。

「それではない」
「え?」
 
 ふいに龍宗が止めた。

「お前が天に捧げるのはその舞ではないだろう?」

「でも……」

「巫女の舞が見たい」

 わずかの間戸惑ったが、璃鈴は別の舞を舞うことにした。

 それは、始まりの舞と言われるもので、里に来た娘が一番初めに覚える舞だ。簡単な振りつけだが、指の一本一本まで神経を研ぎ澄まさなければその意味をなさないと、厳しく教え込まれる。
 相手は皇帝、龍の末裔なのだ。龍神に捧げる舞なのだからよいだろう、と璃鈴は理由をつけることにした。

 璃鈴は、まるで息をするように自然な様子でふわりふわりとその舞を舞った。
 軽やかに舞うその姿を、龍宗は、身じろぎもせずにじっと見つめている。

 終わって龍宗の前に伏せると、龍宗がため息のように言った。

「美しいな」

「あ、ありがとうございます」

 褒められた喜びに顔をあげると、璃鈴の視線と龍宗の視線が真っ向から絡まる。

 熱のこもったその瞳から、璃鈴は目が離せなくなった。

 いつもそうだ。龍宗の瞳は、強い意志を持って璃鈴を絡めとってくる。


「まるで、蛇ににらまれた蛙だな」

 その様子を見て、くく、と龍宗が笑った。璃鈴は、ぷ、と頬を膨らませた。

「私はカエルではありません」

「そうだな。……来い」

 龍宗は、軽くその手を璃鈴に伸ばした。璃鈴は立ち上がって、誘われるままにその手を取る。

 すると龍宗が、璃鈴の手を引いてその指先に口づけた。上からそれを見ていた璃鈴の頬が、か、と熱くなる。

「陛下……」

 その姿勢のまま、龍宗は視線だけで璃鈴を見上げた。
「他人行儀だな。名で呼べ」

「でも……」

「よい。許す」

 そう言われて、璃鈴は震える声でその名を口にした。

「龍宗……様……」



 名前で呼びかけることができるのは、よほどの近しいものだけだ。ましてや、それが皇帝ともなれば、御名を呼べるものは限られてくる。その近しい位置に自分がいることを許されて、璃鈴は嬉しいようなむずがゆいような心地がした。


 璃鈴の呼びかけに満足したのか、龍宗はわずかに笑むと、璃鈴の指にふいに噛みついた。

「っ! ……お戯れは……」

「ああ、痛かったか」

 どうとでもないように言って、龍宗はさらにその指を食んだ。甘噛みだったので痛くはなかったが、璃鈴はなんだか体の奥がむずむずと火照るような恥ずかしさを感じて体をこわばらせる。


「陛下……っ!」

「違う」

「りゅ、龍宗様っ!」

「なんだ」

「あ、あの……!」

 あたふたとする璃鈴を見て、龍宗は声をあげて笑った。からかわれていることを悟った璃鈴は、真っ赤になって怒り出す。


「わ、私は食べ物ではありません! おやめください!」

 その様子を楽し気に見ながら、龍宗は片手を伸ばすと璃鈴の頬に触れた。

「十分うまそうだぞ。だが、少し悪ふざけが過ぎたようだ。すまなかった。さあ、もう休もう。明日も早い」

 いまだ口をとがらせている璃鈴を、龍宗はその腕に抱きあげた。


「あの……!」

「俺に触れられることに慣れろ。夫婦なのだから」

 力強く璃鈴を支える腕は、多少璃鈴が暴れてもびくともしない。龍宗の体温を感じながら、璃鈴はどうしたらいいのかわからずにただ、はい、とだけ小さく答えた。


  ☆


「夕べも、何も?」

「舞を舞ったわ。美しいと、褒めて下さったの」

 次の朝も、真っ白な褥を見て秋華はため息をついた。璃鈴はといえば、舞を褒められた嬉しさに、今だ心ここにあらずと言った表情だ。


「ご夫婦とはなられなかったのですか」

「ちゃんと一緒に寝ているわよ」

 これはいよいよ自分が教えなければ、と秋華は頭を悩ませる。皇后である璃鈴にとっては、皇太子を産むことも大事な使命でもある。


「皇后様、よろしいですか」

 朝食を終えた璃鈴のもとに、年配の女官が一人やってきた。冬梅というその女官は、あまり笑わないせいか、少し怖い印象を与える女性だった。

「はい。なんでしょう」

「雨ごいの儀式の日取りが決まりました。三日後になりますので、本日よりみそぎをおねがいいたします」

「わかりました。では、今日からお食事は精進物をお願いいたします」

 秋華が応えて、冬梅は顔をあげた。


「これから、みそぎの場へご案内します」

「はい。準備をいたしますので、少しお待ちください」

 璃鈴は、白いみそぎ用の衣に着替える。これは里から持ってきたものだった。

 仕度を終え冬梅について行った先は、池の向こうにある竹藪の中だった。その中に、結界の張られた小さな泉がある。こんこんと冷水の湧き出ている泉は、澄んで美しかった。


「ここは、枯れないのですか?」

 長の日照りで、黎安の多くの井戸はかれてしまったと聞いている。

「はい。宮城の中には、どれほど日照りが続いても枯れることのない泉がいくつかあるのです。ここはその一つ。巫女のみそぎ専用の泉でございます」

「そうなのですか」

 冬梅は、水に入る準備を始めた璃鈴をじっと見守っていた。


「この泉に雨の巫女が入られるのは何年ぶりでしょう……」

 おもわず、と言った風で、冬梅が呟いた。

「前の巫女を、ご存じなのですか?」

「はい。以前の巫女は麗香様……陛下のお母様でした。私は、麗香様について参った、里の巫女です」

 その言葉に、璃鈴と秋華の二人がそろって顔をあげた。
「あなたも、里の出だったのですか?」

「もう、三十年近くも前になります」

 戸惑う二人に構わず、冬梅は璃鈴の脱いだ衣を秋華に持たせ、泉の入り口まで璃鈴の手をひいて先導した。

「あの女には、決して気を許しませぬな」

「え?」

 泉に片足を浸した璃鈴にだけ聞こえるように、冬梅はこっそりとその耳元にささやいた。


「秋華の事ですか?」

「あの娘は、『次の巫女』ですね? あなたの命を奪う権利を持つ娘に、心を許してはなりませぬ。今の宮中は代替わりしたばかりで、様々な力の均衡が不安定になっております。なればこそ……」

 予想もしなかった言葉に、璃鈴はあわてて冬梅の言葉を遮った。

「秋華が?! 私の命を奪うなんて……彼女はそんなこと、絶対にしません!」

 冬梅は、少し驚いた顔になった。


「あなたは、『次の巫女』についてご存じないのですか?」

「聞いたことはありません。私は、急のお召しでこちらに来たために、おそらく知らないことがたくさんあるのです」

「……そうですか」

 しばらく考えた後、冬梅は再び無表情になってささやいた。


「貴女様になにかあれば、次はあの娘が皇后となる決まりなのです。それで、侍女として皇后についてきた里の娘を、『次の巫女』と。それを知って『次の巫女』に取り入り、意のままに操って後宮内の私利私欲をほしいままにしたり、恐れ多くも皇后や皇帝の命を狙うものも出てこないとは限りません」

 冬梅は、ちらり、と後ろに控えている秋華に目をやった。

「今は時間がありません。詳しくは申し上げられませんが……ここは里とは違う。彼女を信頼しすぎるのは危険かもしれないということを、覚えておいてくださいませ」

 璃鈴は、目を瞠って冬梅を見上げた。


「……それは、あなたの経験からの言葉ですか?」

 璃鈴の問いに、ふ、と目元を和ませて、冬梅は答える。

「さあ。どうでしょう」

 そして、璃鈴を泉の真ん中へと押す。

「取り越し苦労に過ぎれば、それに越したことはありません。年寄りの戯言とお笑いください。私はあちらで彼女と共に控えておりますので、心行くまでおみそぎなさいませ」

 そうだ。身を清めにきたのだ。今は雑念を捨てなければ。


 璃鈴は、気持ちを切り替えて冷たい清水に体を浸した。


  ☆


 冬梅と二人で竹藪のはずれにある東屋に腰を落ち着けると、秋華は口を開いた。

「あなたは、麗香様についてこちらにいらした『次の巫女』なのですね」

「いかにも」

 誇らしくすら見える顔で、冬梅は答えた。秋華とて、璃鈴と同じく何の準備もせずにここへとやってきたのだ。わからないこと、聞きたいことは山ほどある。何から尋ねたらいいのかわからずに秋華がとまどっていると、冬梅は胸元から小さくて細長い包みを取り出す。


 いぶかし気に見ている秋華の前で、冬梅はくるくるとその包みを開けていった。中から出てきたのは、一振りの短刀だった。普通のものよりもさらに小さく、女性でも片手で扱えそうな代物だ。持ち手が何の飾りもない木製でできていたそれは、古ぼけてはいたが、刀身だけはきれいに磨かれていた。


 冬梅は、包みの上に乗せたそれを秋華に手渡す。

「これは、あなたに」

「私に?」

「ええ。この短刀は、代々『次の巫女』に伝えられてきた、皇后の命を奪う刀」

 秋華は息を飲んだ。


「あなたは、『次の巫女』の役割をご存じですか?」

 少し青ざめた顔で、秋華は頷いた。

「はい。もし皇后に何かあった時は、私が皇后になって皇帝陛下の子を産むこと。そして、万が一、皇后が道を誤った時は……」

 秋華は、手元の刀を見下ろす。

「巫女の力を誰にも悪用されないために、皇后の命を終わらせること。聞いた時はどうやって、と恐ろしく思ったのですが、こういうことだったのですね」
 思いつめたような顔になった秋華に、冬梅は続けた。

「『次の巫女』が皇后を弑しても、お咎めをうけることはありません。これは、個人の問題ではないのです。輝加国にとって、皇帝と神族の交わりは決して絶たれてはならない不変の絆。私たちは、それをお守りするのが務めです。もしその時がきてしまったら、決して迷いますな」

「私は……」

 不安げな様子で顔をあげた秋華に、冬梅は少しだけ、笑みをこぼした。



「その様子を見れば、あなたを璃鈴様のお供に選ばれた長老の判断は、おそらく間違ってはいないのでしょう」

「……私の、何を選ばれたのでしょう」

「そのように葛藤するところではないですか? 皇后は、良いご友人を持たれた」

 それだけ言うと冬梅はまた無表情に戻って、口を閉ざしてしまった。秋華も自分の思いに沈んで、それ以上は何も言わなかった。


  ☆


 まだ日も差さない薄闇の中で、璃鈴は神楽に座っていた。朝凪に静まる大気の中で、じ、とその時を待っている。

 その神楽は、広い池の真ん中に張り出す形で作られていた。四方を白い布で囲われた広めの床に、ふいに、光がさす。閉じた瞼にその光を感じて、璃鈴は目をあけるとゆっくりと顔をあげた。その姿が、みるみるうちに日の光に包まれていく。


 璃鈴は立ち上がると、ゆらりと舞を始めた。手にした羽の扇子をひらりと仰ぎ、その動きにつれて巫女の衣装がたゆたう。緩急をつけてひらひらと舞うその様は、人の目に触れることはない。それは、空の龍神にのみ捧げられる舞なのだ。


 雨ごいの舞は、日のある間は休むことなく続けられる過酷な舞だ。里ではみんなで舞っていたが、ここで舞うのは璃鈴一人だけだ。皇后の地位についた雨の巫女は、格段にその力が強くなるという。


「始まったようですね」

 湖のこちら側で様子をうかがっていた秋華がつぶやくと、冬梅も厳しい目で舞台を見つめた。薄い幕の向こうに、ときおり影が動くのが見える。

 龍宗も璃鈴の部屋の中からその影を見ていたが、女官が朝議の時間だと告げに来ると、静かにその場を後にした。


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 その夜、龍宗が璃鈴の部屋を訪ねると、秋華が困ったような顔をして待っていた。

「申し訳ありません。皇后様におかれましては、本日の雨ごいの舞でお疲れになったらしく……」

 見れば、璃鈴は長椅子で横になったままぴくりとも動かない。


「先ほどからお起こししているのですが……」

「よい。眠らせておけ」

 深く眠っている璃鈴は、吐息すら細い。その頬を、龍宗はそっとなでる。それでも璃鈴が起きないとわかると、ぷにぷにとその頬をつつき始めた。

「本当に起きないな」

「はい。よほどお疲れなのでしょう。あの、今夜はお部屋にお戻りになりますか?」

 聞かれた龍宗は、璃鈴の細い体を長椅子から抱き上げる。


「いや。このまま共に眠る」

「かしこまりました。おやすみなさいませ」

 秋華は礼をとると、明かりを消して静かに部屋から出ていった。

 寝台に横たわって眠り続ける璃鈴を、薄闇の中で龍宗はしみじみと見つめる。

「……つまらぬ。俺こそが龍の化身だというのに、その俺が、お前の舞の側にいることができないのか」

 誰にも聞かれることのないつぶやきは、闇に溶けて消えた。