「……!」

 ちくり、と鋭い痛みを喉元に感じた璃鈴は、思わず声を上げそうになった。

 けれど、その痛みも一瞬。龍宗は璃鈴から体を離すと、乱れた璃鈴の黒髪を、そっとその手で払いながら穏やかな声で言った。


「今宵は、これ以上は何もしない。お前も、次々と新しいことばかりで、ゆっくり休む時間が必要だろう。外聞がある故共寝はせざるを得ないが、お前の眠りを邪魔することはしない。安心して眠るがいい」

 そう言って立ち上がると、龍宗自ら明かりを消した。そしてまた褥へともどってくると、再び体をこわばらせた璃鈴の隣へもぐりこむ。じきに規則正しい寝息が聞こえてきた。


 璃鈴は、無言で隣に眠る龍宗を見つめていた。龍宗が眠ってしまったのを確認すると、ようやく体の力を抜く。

(とりあえず、これでいいのかしら)

 同じ布団で眠っているのだから、これで初夜は無事に終わったのだろうと安堵する。すると璃鈴にも強烈な眠気が襲ってきた。連日の慣れない旅に加え、今日は朝から一日、婚儀の準備で忙しかったのだ。隣に眠る龍宗にほんのりと感じる体温が、さらに眠気を誘う。


(お母様……)

 里に入る前は、璃鈴もこうして父や母の体温を感じて眠っていたことを思い出した。龍宗の温かさに懐かしさを感じながら、璃鈴は瞬く間に深い眠りへと落ちていった。


 璃鈴が眠り込んでしばらくすると、龍宗がむくりと体を起こした。彼は、眠ってはいなかった。隣で眠っている璃鈴を、じ、と見下ろす。

 そうして深い溜息をつくと、そのまま仰向けにごろりと寝転んで暗い天井を見つめた。龍宗はその夜、眠ることはなかった。


  ☆


「おはようございます。璃鈴様」

 声をかけられて、璃鈴は目を覚ました。

 あたりはすっかり明るくなっている。ぐっすりと眠った璃鈴に、昨日の疲れは残っていなかった。隣に眠っていた龍宗はすでにいない。布団がひんやりとしているところをみれば、かなり前に起きたようだ。


「おはよう、秋華。陛下は、もうお目覚めなのね」

「はい。早くに宮城に戻られましたよ。今日も朝から朝議があるのですって」

「そう」

 璃鈴は、龍宗に目覚めの挨拶ができなかったことが少しばかり寂しかった。

(明日はちゃんと早くに起きて、陛下におはようって言おう)


 心配していた初夜を無事に乗り切ったことで、璃鈴の心には少しだけ余裕が生まれていた。怖いと思っていた龍宗だが、璃鈴のことをちゃんと気遣ってくれる人だということもわかった。

(もっとお話をしたい。そうしたらきっと、陛下に近づける気がするもの)


 起きてきた璃鈴を見て、一瞬だけ秋華は動きをとめる。

「……どうかした?」

「あ、いえ」

 璃鈴の寝衣の胸元は、夕べ龍宗に開かれたままになっていた。そこにあった朱色のしるしに、秋華は頬を染める。璃鈴より年上の秋華は、初夜の床で何があるのかを詳しく知っていた。だが、褥を片付けようとして、そこに乙女の印がないことに気づく。


「……璃鈴様、夕べは陛下と一緒に眠られたのですよね?」

「ええ」

「あの……こう聞いてはなんですが……きちんと、夫婦となられたのでしょうか」

 なぜか頬を染めながら聞いた秋華を見て、璃鈴は首をかしげる。

「きちんと……? って、どういうことかしら」

「その、陛下は璃鈴様の肌に、触れられたのですよね?」

 さらに赤くなった秋華を見ながら璃鈴は思い出す。


「そういえば、首元に唇をお付けになったわね。ちくりと何か痛んだから、私、噛まれたのかしら」

「……それだけ、ですか?」

「ええ。その後は、ぐっすりとお休みになっておられたし」

 ということは、夫婦の契りはなかったということだろうか。けれどそこに所有の印があるということは、いずれはそうなるという龍宗の意思の現れなのかもしれない。秋華は、昨日は陛下もお疲れだったし、と納得しかけて、ふいに気づいた。


「あの、璃鈴様は十六歳になった日にここへと発たれたのですよね」

「ええ。そういえば、あの夜はみんなでお祝いをしてくれるはずだったのに、残念だわ」

 つい一週間ほど前の事なのに、もうすっかりと昔の事のような気がする。懐かしく思い出す璃鈴とは反対に、秋華の顔が青ざめた。

「あの、失礼ですが、長老様から房の講習については……」

「受けないまま来てしまったわね。でもなんとかなったから大丈夫よ。私たち、無事に夫婦になれたわ」

 実はなんとかなっていないことを、璃鈴は知らない。秋華は頭を抱えた。



 では、これは私が教えなければいけないことなのか。

 必要なこととはいえ、秋華とてまだなんの経験もない乙女だ。どうやって伝えればいいというのだろう。 


 一人悩む秋華をよそに、朝食の用意をしようと次々に女官たちが部屋に訪れる。彼女たちも璃鈴の首に残るしるしをちらちらと確認して、皇帝夫妻が正しく夫婦となったことを疑わなかった。


 けれど、それからしばらく、龍宗は璃鈴の部屋を訪なうことはなかった。