幼なじみにはナカさんとは別に親同士が決めた許嫁がいたのだ。ナカさんにはそんな彼女を許嫁から奪う勇気もなく、悶々と日々を過ごしていた。
 そうして先日。
 幼なじみはとうとうその許嫁と祝言を挙げたのだった。
「あいつの白無垢姿、めっちゃ綺麗やった……」
 ただ、その隣にいるのが自分ではないことに、情けなさを感じたナカさんは大雨の今日、神戸港に身投げをしようと傘も差さずにやって来たのだった。
 いよいよ入水をしようとした時だった。
 ぎゅるるるるぅ~……。
 盛大にナカさんの腹の虫が鳴った。ナカさんはその音に、自分が今空腹であることを知る。しかしこれから入水自殺をしようとしているのだ。ナカさんは(かぶり)を振って神戸港を見つめた。だが、一度空腹を意識したらもう駄目だった。頭の中を占めるのは、身投げのことよりも食べ物のことばかりになってしまう。
(腹を満たしてからでも、遅くはないよな……?)
 そう思ったナカさんは(きびす)を返すと、神戸港に背を向けて元町の方へと歩みを進める。そうして歩いていると、ビーフシチューの良い香りに誘われた。気付いた時、ナカさんはこの『喫茶 ねこまた』の前にいたのだった。
「後はさっきも話した通りや。俺はサクさんのビーフシチューで空腹を満たし、ミケ太に触れることでかたくなだった自殺願望も消えて、生きることにしたんや」
 ナカさんは両腕を組みながら、うんうんと頷いておユキちゃんとクリスティーンに言う。
 ナカさんの話を聞いたおユキちゃんはなんだか複雑そうな表情を浮かべている。それに気付いたクリスティーンが、
「おユキちゃん、どうかしましたカ?」
「いや、長い話だった割には、余り中身のないお話だったと思いまして……」
「何やてぇ? 俺がここに来てなかったら、ここの名物ビーフシチューはなかったんやで?」
 おユキちゃんはそう言うナカさんの言葉に軽く肩をすくめると、台拭きの仕事へと戻っていく。話を聞いていた作太郎はその様子に苦笑しながら皿を拭いていくのだった。