ナカさんは今から二年前の明治四十年九月に初めて来店した。その時のナカさんの姿は酷いもので、雨に降られてずぶ濡れだった。作太郎はそんなナカさんを暖かく店内へ迎え入れる。
 作太郎は寒さに震えていたナカさんへ、温かなビーフシチューを提供した。そのおいしそうな香りにナカさんの腹の虫が鳴る。しかしナカさんは慌てて、
「俺、こんな高級なものが食べられる程、持ち合わせないで?」
 そう言って口を付けるのを我慢していた。そんなナカさんへ作太郎は笑顔を浮かべながら、
「これ、今年の四月に寿屋から出た、赤玉ポートワインを使った試作品なのです。ようやく手に入ったもので作ったので、誰かに食べて戴きたくて」
 そう言いながら、作太郎は是非食べて感想を聞かせて欲しいとナカさんへ言う。もちろん、試作品なのでお代は取らないと。
 そこまで言われたナカさんは恐る恐ると言った風にビーフシチューへ口を付けた。
「う、うまい……!」
 ナカさんは一口口を付けてから、その後は勢いよくビーフシチューをかき込んでいく。そうしてあっという間に一皿分を平らげてしまった。
「おいしかったですか?」
「最高やっ!」
「そうですか」
 それっきり、作太郎は何も言わない。沈黙が降る中ナカさんの椅子の、隣の椅子の上に一匹の三毛猫がぴょんと飛び乗って現れた。
「猫……?」
 飲食店にはあまりにも不釣り合いなその様子に疑問符を浮かべるナカさんに作太郎は。
「ミケ太って言います。おとなしいんですよ」
「触っても?」
「どうぞ」
 作太郎ににっこりと言われたナカさんは、ミケ太の背中にそろそろと手を伸ばして撫でる。ミケ太は逃げる様子も見せずにおとなしい。その感触は柔らかく暖かい。柔らかな毛並みに手を沈めていると、ナカさんの毛羽立(けばだ)っていた感情も少しずつ鎮まっていく。ミケ太はずっと、おとなしくナカさんに撫でられ続けていた。
 そうして訪れた穏やかな沈黙を、ナカさんがぽつりと言葉を落とすことで破った。
「なぁ、話、聞いてくれるか?」
「はい」
 笑顔を返してくれる作太郎に、ナカさんはミケ太を撫でながら実はな、と言葉を落としていく。
 ナカさんには一人、女の幼なじみがいた。幼い頃から控え目な性格だったその幼なじみのことを、ナカさんはずっと好いていた。ナカさんが好きだと言うと、いつも困ったように笑うのだった。その笑顔も含めて、ナカさんはその幼なじみを好いていたのだった。
「でもな、良くある話やねんけど……」