控え室を抜け出すのも、ここまで歩いてくるのも、私たちに声をかけるのも、たくまくんにとってはすべて冒険だったはずだ。お母さんの笑顔が目的地の、大きな冒険。

「お母さんが普段自分のためにがんばってるって知ってたから、きっと桜餅をあげて、喜んでもらいたかったんです」

 ここまで静かに話を聞いていた佐倉さんの瞳が揺れて、瞬きした瞬間に大粒の涙が落ちた。

「拓真……!」

 涙をこぼした佐倉さんは寝ているたくまくんを抱きしめ、嗚咽をもらした。

「あの、一心さん……」

 佐倉さん親子を見守りつつ、こそっと一心さんに耳打ちする。すると一心さんはいたずらっぽい笑みを浮かべ、私にビニール袋を渡してきた。屋台で使っていたビニール袋は、重みでたゆんでいる。

「おむすびが必要なものは、これだろう?」

 先回りして用意してくれていたなんて。いや、一心さんも私と同じことを考えていたのかも。

「ありがとうございます……! あの、私がお渡ししていいんですか?」
「もちろんだ。早く渡してやれ」
「はい!」

 顔を上げ、涙をぬぐっている佐倉さんの前でしゃがみ込む。

「あの、佐倉さん、これ……。よかったら、たくまくんが起きたら一緒に召し上がってください。道明寺タイプの桜餅と、ちらし寿司です」

 ふたりぶんのちらし寿司と、パックいっぱいの桜餅が入った袋を手渡すと、佐倉さんは潤んだ瞳を大きく見開いた。

「あ……。ありがとうございます……」

 佐倉さんは眠ったたくまくんを抱っこしたまま、何度もお礼を言って商工会控え室に戻っていった。

 ステージでのイベントも終わりだんだんと人が減っていく中、夕暮れを前にして桜まつりは閉会を迎える。
 オレンジ色になる前の柔らかい太陽の光が、今日一日たくさんの人の目を楽しませてくれた桜たちを癒やすように降り注いでいた。