「今も、そう思っているのか?」

 カウンターから身を乗り出して、背中を丸めているおやっさんに言葉をぶつける。

「店をまわっていたとき、楽しそうにしていたおやっさんの表情は、本物なんじゃないのか? 本当はもっと生きたいと、思っているんじゃないのか?」

 おやっさんが、ハッとしたように顔をあげる。
 私はなぜだか、こぼれる涙を止められなくなっていた。

「奥さんもおやっさんに、おいしいものをたくさん食べて、たくさん生きてほしいと思っているんじゃないか?」

 一心さんの、真摯な言葉。それを受け止めたおやっさんは、口元に弱々しい笑みを浮かべた。

「一心の目はごまかせないな……」
「おやっさん、それじゃあ……!」

 一心さんがこんなに必死な声をあげるのを、私は初めて聞いた。

「最初は終活と思って始めたことなのに、新しい店で食べたことのない味にめぐりあうたび、料理人の心がうずいてしまった。もっと生きて、もっとたくさんの味を知って、そして作りたい、と……」
「これはおやっさんが俺を救ってくれた思い出の料理だ。俺はまだおやっさんに恩を返していないから、おやっさんには長生きしてもらわないと困る」

 一心さんが手の甲で目をぬぐう。
 私はそこで初めて、一心さんも涙を流していたことを知った。涙声にもならず、しゃくりあげもせず、静かに泣いていたことを。

「おやっさん」

 少し目が赤くなった一心さんが告げる。まっすぐにおやっさんの目を見て。

「生きるために、前を進むためにこの肉じゃがを食べてもらえないか」
「……わかった」

 おやっさんはうなずき、黙々と肉じゃがを食べ始める。その頬にも涙が伝っているのを見つけた。
 私も、隠すことを諦めて、ぐしゃぐしゃになった顔で肉じゃがを頬張る。

「……おいしい」

 ぽつりとつぶやいた私の言葉に、おやっさんは「ああ、世界一の肉じゃがだ」と返してくれた。

 それを聞いた一心さんがまた目を潤ませていたことを、おやっさんは気づいただろうか。

 前に進むための肉じゃが定食。一心さんの、おやっさんの人生を変えたこの料理の味を、私は一生忘れない。