浅草お狐喫茶の祓い屋さん~あやかしが見えるようになったので、妖刀使いのパートナーになろうと思います~

 絞り出すような問いを耳にしながら、机上にあったスマホを手に取る。

(――雅弥だって、同じじゃんね)

 壁の朱をその身に反射して、鈴は頷くように揺れた。

「私のこの身体だけが、"私"じゃないから」

「――っ」

 わからない、と言いたげに見開かれた瞳。

(……もし私が同じ質問をしたら、雅弥はなんの迷いもなく"祓い屋だから"って言いそう)

 相手への好意とか情とか。そういう流動的な背景は一切関係ない。
 雅弥は自身の感情は一切抜きに、有事であればあるほど、"祓い屋"としての視点で考え動く。
 だから、わかってる。雅弥は"祓い屋"として、ヒトである私を守ろうとしているんだって。

(ま、それが雅弥だしね)

 胸中でこっそりと口角を上げて、私は再び壱袈の元に歩み寄る。

「いつでもどうぞ」

「……ふむ。では、唐笠の華よ。ちょいとばかし散歩に付き合ってもらえるか」

「ボクたちの眼を引き剥がして、その子に何をするつもりだい」

「そう怖い顔をするな、藤狐。時には役目をなしに、つかの間の休息を謳歌してもバチはあたらんだろう?」

 なんせ、こうして俺に臆さぬ"見える"ヒトは久しぶりでなあ。
 嬉し気に告げる壱袈は言葉通り、降って湧いた出会いを純粋に喜んでいるようにしか見えない。

(もしかして、見極めだなんだって理由をつけて、実はただ私達で遊んで息抜きしたいだけっだり……?)

 なーんて、こんな初手で気を緩めるなんてヘマはしない。
 私だって立派な中堅社員。おまけにこの見た目だし?
 だてに"タヌキ"相手に競り勝ってきてないんだから!

「散歩ね。ならちゃっちゃと行きましょ!」

 渉さんのケーキだって早く食べたいし、お葉都ちゃんとのお化粧談議だって待っている。
 さっさと終わらせて、さっさとお帰りいただこうと、私はきびきびと上り口でシルバーのフラットシューズを履く。

「うむうむ。怖じ気づくどころか、存外積極的とはまた」

「悪いけど、可愛らしい反応をご所望なら、他を当たってくれる?」

「いや、良い。華は怯える姿も愛いが、物怖じしない度胸も好ましい」

 くくっと楽しそうに笑いながら壱袈もまた、真っ黒な革靴に足を入れ降り立つ。
 と、私の眼前で歩を止め、

「名は何という」

「……彩愛よ」

「なら、彩愛。これを頼まれてくれるか」

 壱袈はそう言って肩に羽織っていた着物を片方の手で引き、するりと腕に脱ぎ掛けた。
 私に差し出す。
「これは隠世の打掛(うちかけ)でな。纏うとヒトの気をあやかしに近づける。近頃のこの辺りはヒトが多いからな。せっかくの息抜きなのだから、目立たずに歩きたい」

「でも私がこんなの着てたら、余計に目立つんじゃない?」

「案ずるな、これは"見えぬヒト"の目には映らん」

「……それなら」

 受け取って、片方の腕を通そうとした刹那。

(って、コレたしか結構裾長かったような……!)

 壱袈の背丈は軽く190センチはあるように見える。
 そんな長身の彼ですら、肩にかけて、足首までを覆うほどだった。
 なら160センチそこそこの私が羽織っては、きっと裾を引きずってしまう。
 不自然に動きを止めた私を不思議に思ったのか、壱袈は「なにか不都合があったか?」と顔を覗きこむように上体を傾けてから、

「ああ、そうかそうか。言葉が足りんかったな。あやかしの気に近づけるといっても、その身に変化が起きることはない。ただちょいとばかし、ヒトから認識されにくくなるだけだ。だからそう怯えずとも――」

「あ、ううん。そうじゃなくて、このまま私が羽織ったら裾を引きずっちゃうから、どうしたらいいかなって」

「なんだ、そんなことか。気にせずそのまま羽織って良いぞ」

「え、だってこんな綺麗な打掛なのに汚すなんて……」

「そうだ。それは汚れを嫌う。だから、平気なのだ」

「……ん?」

(なんか隠世の特殊製法で、引きずっても汚れないし痛まない生地だとか……?)

 ともかく羽織ってみろと笑む壱袈。
 促されるまま袖に腕を通して、念のため抱えていた裾部分からえいやと手を離した。
 勢いよく落下する裾。
 あ、ほら。やっぱり下についちゃう――と即座に引きあげようした刹那。

「……あ、あれ?」

 違和感によく見れば、床より数センチ上の位置で、裾がふわりと浮いている。
 更には左右に首を捻って確認すると、後ろに向かって綺麗な扇状を描いていて、なんというかすごく……。

「花嫁さんのお衣裳みたい……」

「打掛だからなあ。本来ならば(ふき)……袖口や裾の裏布を表に出して、縁のようにした部分だな。そこに綿を入れるものなのだが、それはどうにも嫌がって、そうして自身で形作るのよ」

「それって、この子もあやかし……生きているってこと?」

「"生"の定義にもよるが、それには意志はあれど心の蔵はない。寝食も不要だ。そうして裾を浮かせたり、袖をはためかせる程度のことは可能だが、己の力のみで動き回ることは出来ん」

「へえ……あ、わかった。付喪神(つくもがみ)みたいな感じね」
 私の鈴ちゃんも、いずれこんな風に動いたりするのかなあ。
 ふよふよと宙に浮く鈴を想像しながら打掛を眺めていると、

「神ではなく、あやかしだがな」

「つくもあやかし……なんだが語呂悪くない?」

「くっく、なに。決まったくくりを持たぬモノだ。好きに呼んだら良い」

 と、背後から疲れたようなため息。

「アンタは……どうしてそう呑気なんだ」

「雅弥……。あ、大丈夫! ちゃんとバッチリ警戒してるから!」

「アンタの場合、警戒の度合いが浅すぎる。……これを連れていけ」

 刹那、すっと上がった雅弥の手の先から、ぴょいんと白い子狐が飛んできた。
 私の肩に降り立つと、筆先のような尻尾を左右に振る。

「え、あ、カワイイ!」

「少し黙っていろ。……いいな、壱袈」

 伺うというよりは脅しの気配が強い声で、雅弥は壱袈を睨め付ける。
 壱袈は「そうかそうか」と肩を竦めて、

「これ以上の"護り"は必要ないと見えるが……まあ、他ならぬ雅弥の頼みなら致し方ない」

 さして大きな問題ではないのか、壱袈は「さて」と話を切り上げ出入口へと歩を進めた。

「行くか、彩愛」

 扉前で足を止めた壱袈が、左ひじを軽く曲げ視線だけで促す。

(……そこに手を添えて、腕を組めってことね)

 私が了承したのは"散歩"であって、"同伴"ではないのだけど。
 思ったけど、言葉にするほど野暮じゃない。
 だってこれは、守れるか奪われるかの試練なのだから。
 私はすうと息を吸い込み、背を正す。

「……ごめんね、彩愛ちゃん」

 届いた呟きはカグラちゃんのもの。
 振り返れば、申し訳なさそうに視線を下げるカグラちゃん。
 その横で雅弥は瞳に心配を浮かべ、眉根に葛藤を刻んでいる。

(ほんとに、あったかいなあ。ここは)

 大切に、護られている。
 心の内から湧き上がるぽかぽかした感覚に、私は頬を綻ばせ、

「なんてことないわよ、こんなの」

 守られているだけじゃ性に合わない。
 私の大切な場所は、私が絶対に守ってみせる。

(……だから、どうか)

 背を向け、妖しげな陰影の際立つ待ち人へと歩み寄る。

「怖いか?」

「まさか」

 挑発気味に笑んだ私は、ありったけの決意と願いを込めて、右手を壱袈の左腕に預けた。

「――いってきます!」

 帰ってきたら、"おかえり"と。
 私の戻れる場所はここにあるんだって、迎え入れてほしいな。
 澄んだ青空に映える、朱と緑青色(ろくしょういろ)の門。
 瓦屋根の影がかかる上部中央の扁額(へんがく)には、金で書かれた『金龍山』の文字が賑わう人々を静かに見下ろしている。

 普段ならばこの人込みに飛び込むのは躊躇われるのだけど、打掛のおかげか、壱袈が何か術でも使っているのか。
 私達の姿など見えていない様子なのに、人が自然と避けてくれるのでとても歩きやすい。

「久しぶりに近づいたけど、やっぱり大きいー……」

 難なくたどり着いた、浅草といえばなメインシンボル、『雷門』の名を記す大提灯の真下。
 その大きさに圧倒されながら見上げると、雄々しく口を開いた、朱の色が目立つ彫刻の龍が目に入った。

「えっ、こんなところに龍なんていた?」

「左方と右方から、風神、雷神が睨みを利かせているからな。気付かぬのも無理はない」

 その龍もまた、ここの"護り"だなあと壱袈も龍を見上げ、

「龍もまた、雨を呼び火を収める神のひとつ。昔は木の建築が多かったからな。事実、この門も幾度となく焼失している。最後の延焼からしばらくは再建もなかったが……やはり、こうして派手なモノは良い。この門が出来たのは、つい最近だな」

 深紅の眼が、懐かしむように細まる。

「浅草寺の本尊は、隅田川で漁をしていた兄弟の網にかかった仏像であろう? 話によるとその引き上げの際、金の鱗を纏った龍が現れたというが……」

「あ、もしかしてそれで、"金龍山"なの? あれってなんのことかなーってずっと思ってた」

「浅草寺の屋号よ。まあ、真偽はわからぬが、龍はこの浅草寺にとって無くてはならぬ"護り神"ということだ」

「へえ……。もし龍じゃなくて金の猫が出てきていたら、"金猫山"だったかもだし、ここには猫ちゃんが彫られていたかもってこと」

「蛙が出れば、金の蛙だったかもな。まあ、どちらも雨は呼べぬが、猫は福を招く。蛙は様々なモノが"かえる"縁起物とされているし、祀られてもおかしくはないだろうな」

 壱袈は冗談めかしてくつくつと笑って、

「なんにせよ、全てには"始まり"があるということだ」

「……はじまり」

 頷いて、壱袈が再び歩き出す。

(……雷門は雷門、って感じだったから、成り立ちとか全然気にしたことなかった)

 こうして聞いてみると、案外面白いというか……なんかよりご利益がありそうというか。
(にしても、壱袈がこんなに詳しいのって、やっぱりあやかしだから?)

 特に、金の龍のこと。真偽はわからないって言ってたけど、実は知っていたりして……。
 けれどもそんな私の疑念と興味は、どこからか漂ってきた香ばしくも甘いかおりにすっかり消え去ってしまう。

 つられるようにして視線を向けると、店頭の赤い木枠に「雷おこし実演販売」の文字。
 群がる人が興奮交じりに、人によってはカメラも向けている。
 その先には中腰になり、まだパラパラと纏まりのない生地を両手で熱心にこねる白服の男性が。
 けれどそれも、ほんの数秒。

「わ、もう塊になっちゃった……!」

「ん? ああ、寄っていくか? 少し待てば出来立てが食べられるぞ」

「いいの!? いきた――」

 い、と言いかけて、私は慌てて口を抑える。
 忘れてない。渉さんが、お葉都ちゃんの顔完成を祝うケーキを焼いてくれているってこと。

「や、やっぱり今度にしておく!」

 平べったい木の型に合うように、ぐっぐっと押し伸ばされていく、まだ柔からな雷おこし。
 その誘惑から何とか視線を切り、先を促すと、

「良いのか? 金ならあるぞ?」

「ううん、そういうことじゃなくて……えと、今ちょっとお腹いっぱいだから」

 と、その場はなんとか切り抜けはいいものの……。
 鳩や提灯の形が可愛い、ふわっふわの人形焼き。
 狐色のきな粉がたっぷりかかった、串刺しの茹でたて団子。
 すれ違った着物姿の女の子二人の手には、ザクッとジューシーな揚げたて浅草メンチ……。

(ゆ、誘惑が多すぎる……!)

 カップ入りのトロトロ大学いも。醤油の香ばしさがそそるおかきに、サクッとさっぱりアイスもなか。
 甘ーく誘う、餡たっぷりのたい焼き……!

(まさか壱袈の見極めって、私の忍耐チェックだったり?)

 ちらりちらりと横目で伺うたびにぐっと耐えるけど、正直そろそろお腹が鳴りそう。

(でも、もうすぐ仲見世通りも抜けるし、あとちょっとの辛抱……!)

 その時。差し掛かった木陰で、壱袈が歩を止めた。

「ひとつ、付き合ってくれんか?」

「へ?」

 ついと視線を向けた先には、円柱形の赤提灯と、あげまんじゅうの文字。

「ここを通ると、どうにも食べたくなってしまってな。無理にとは言わんが、共にどうだ?」

「! じゃ、じゃあ私も……!」

 ごめんなさい渉さん……! 限界です!

(これだけ歩いてるし、ひとつくらい余裕でしょ!)
 こくこくと頷いた私に、壱袈は手を口元にあててクックッと笑いながら、「そうかそうか」と店頭へ寄り、

「さて、どれにする? 俺はごまだな」

「私は……さくらかな」

 頷いた壱袈は「注文をいいか」と店員さんへと声をかけ、

「ごまとさくらを一つずつ頼む」

 ベスト裏から布財布を取り出して、紐をくるりと外した壱袈が五百円玉を青いトレーに乗せる。

「って、待って私ちゃんとお金持ってるから」

 スマホケースの内ポケットには、急に必要になったときを見越して折り畳んだ千円札を入れてある。
 慌ててそれを引き抜くと、

「あら!? あらあらまあまあ、こんな美男美女が目の前にいるのにさっぱり気づかないなんて!」

 店員さんは目を丸めながら頬を染め上げて、

「ほんとにどちらも綺麗ねえ。モデルさん? あ、握手してもらお! お代は一つ分でいいから、気に入ったらいっぱい宣伝してちょうだい!」

 はい、とトレーにお釣りを乗せて、白い紙に挟まれた揚げまんじゅうを「どうぞ! 熱いからね」と手渡される。
 恩に着る、と受け取った壱袈はひとつを私に渡して、

「そういうことだから、それはとっておけ」

「ええ……でも」

「散歩もそうだが、こうして誰かと共にこのまんじゅうを食すのは、随分と久しぶりでな。感謝を示すには、あまりに安すぎるが」

「……じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとね、壱袈」

 礼を告げて受け取ると、壱袈は「ありがとう、か」と苦笑を浮かべ、

「彩愛といると、自分があやかしであることを忘れそうになるな」

「え……?」

(それって、どういう……?)

「ほれ、冷めぬうちに味わってみるといい」

「あ、うん……」

 壱袈は自分の揚げまんじゅうをさくりと食んで、

「うむ、美味い。この薫り高いごまの風味と餡子の、実に合うことよ」

「…………」

 私も食べよう。
 まだ熱さの残る衣をふうと吹いて、ひとくち。
 サクリと破れた衣と、もちりとした生地。桜色をした白餡のまろやかな甘みと共に、ほのかな塩気が混ざり合う。

「お、おいし……っ! しかもこれ、一度桜の葉で巻いてから揚げてある……!」

 よくよくみたら、衣にも混ぜ込まれた桜の花が。

(この塩気は、塩漬けにされた桜だったのね……)

 それにしても、見れば見るほど餡子が本当に綺麗な薄ピンクで、うっとりしてしまう。
「見た目までなんて雅な……。和よね和。大和撫子って感じ」

「そうかそうか、気に入ったようでなによりだ」

「あ、子狐ちゃんも食べれるのかな? いる?」

 肩でくつろいでいた子狐ちゃんに問いかけてみると、ピンと耳が立って尻尾がふさりと揺れた。

(これは、食べれるってことかな……?)

 肩口に揚げまんじゅうを寄せてあげると、あーんと口を開けてあむあむと食べだす。

「かわいい……この子、譲ってくれないかな……」

 あまりの愛らしさに、式神ってどうやって育てたらいいんだろと本気で考えこんでいると、

「式はその主と繋がる存在だ。傍に置くというのは、その主にすべてを知られるということだぞ」

「ってことは、雅弥にぜーんぶ筒抜けってこと……。それは……私はともかく、雅弥が嫌がりそう」

 ならきっとこの子は、『忘れ傘』に戻ったらお別れ。
 残念、と揚げまんじゅうを咀嚼する私を、壱袈はじっと見下ろして、

「……彩愛は随分と、雅弥に心を開いているのだな」

「うーん? そうねえ。言葉は足らないし口も悪いけど、なんだかんだ優しくて面倒見もいいし。何より丁度いい感じに私に興味ないから、一緒にいるのが、すっごく楽」

「怖いとは思わぬか?」

「雅弥が? 特にそう思ったことはないけど……。あ、嘘。怒ったときはちょっと怖いかも」

「……そちらの"怖い"になるのだな」

 壱袈は何かを思案するように、ゆったりと歩を進め、

「さて、そろそろ宝蔵門(ほうぞうもん)だ」

 言葉に前方を見遣ると、額に『浅草寺』と書かれた二重の門が。
 中央には『小舟町』と書かれた、これまた大きな朱色の提灯が釣り下がり、その両脇には金字の派手な黒提灯がどんと構えている。

「抜ければ、いよいよ本堂だな」

 私は頷いて、ぱくぱくっと揚げまんじゅうをお腹の中へ。
 紙は小さく折り畳んで、ポケットに収める。
 行くか、と促す壱袈に再び右手を預け、人波に紛れて門へと踏み入れた。
 抜けるまで数メートルはある、その中頃に差し掛かった辺り。ふと、壱袈が口を開く。

「先ほど、雅弥と共にあるのは怖くないと言っていたが」

「うん?」

 頭上を通り過ぎる赤提灯。間近に迫る、朱塗りの柱。
 歩を止めないまま、ほの暗い影を落とした瞳がにいと細まる。

「なら、これはどうだ?」

「え?」

 門から抜ける。途端、

「!?」
 人が、消えた。それだけじゃない。静かというより、無音の世界が広がっている。
 おまけにひらけた周囲は夕陽を直接塗り付けたかのように、すべてが橙がかっていて――。

「なに、これ……」

 まさか、これが隠世――?

「ここは"狭間(はざま)"。現世と隠世の間に存在する、空間のようなモノだな」

「! 壱袈……!」

 見れば先ほどまで隣で並び歩いていた壱袈が、本堂へと通ずる石畳の道中にある、常香炉(じょうこうろ)の前に立っている。

(いつの間に……)

 けれどもひとりではない安堵に「あ、なんだ。隠世じゃないんだ」と肩の緊張を解くと、

「隠世が所望だったか? なら、俺が連れて行ってやろう」

「ごめん、大丈夫。興味はあるけど、遠慮しておく」

 隠世にヒトは長くいられない。雅弥にも郭くんにも、あれだけ"気をつけろ"と注意されている。
 首を振った私に壱袈は「そうか」と残念そうにしょぼくれた顔をするも、「まあ、それはいずれな」と宙を見上げ、

「見えるか?」

 端的な問いに、視線の先を辿る。と、それは徐々に、けれども一度"気づいて"からは如実に、その姿を現した。
 濃さを変え、形を変え。大小と揺らめきながら、無数に漂う黒い(もや)
 特に、みくじと書かれた木札の前やお水舎といった、人が集まる場に多く集まっている。

「……っ! なんで"念"がこんなに……!」

「ほう、やはり見えるのか」

 壱袈は驚いたというより、確信を得たと言わんばかりに笑むと、

「気分はどうだ?」

「そりゃあ、"念"には一度苦労させられたし、良くはないけど……」

「体の不調や、息苦しさは」

「ん? そういうのは特に感じないかな」

 高倉さんの時のような悪寒もない。
 たぶん、ここに漂うどの"念"も、私に関係したモノじゃないからだろうな……などと考えてると、

「……なるほどなるほど」

 興味深げに頷いた壱袈は、

「この世界は陰陽の双方で成り立っている。あやかしは陰、神は陽。ヒトはその両方を。"念"というのは、いわば人の陰の気だ。こうした欲望と願望の集う場では、特に溜まりがちになるものでな」

 言いながら壱袈が、左の袖を軽く引き上げた。
 途端、その手首に現れたのは、深緑色の球体が連なるブレスレット。

「寄り集まり、濃く重なった陰の気は"(よど)み"となる。ヒトを狂わすのはもちろん、あやかしをも惑わし、時には良からぬ"怪奇"を生みだす」
 ふむ、これなら三本程度か。
 呟いて、壱袈がブレスレットに触れる。
 次の瞬間、漆黒の烏羽(からすば)が三枚、壱袈の手中に現れた。

「! そのブレスレットってもしかして、壱袈の妖力の結晶……?」

「そうだ。よく知っているな」

 何も知らぬと聞いていたのだがなあ、と壱袈はくつくつ笑い、

「淀みから生まれた"怪奇"は、時にヒトを、時にあやかしを食らう。ゆえに俺の束ねる隠世警備隊は、淀みを作る前に"散らす"のだ」

 瞼を伏せた壱袈が、扇状に持った三枚の羽でくるりと宙に円を描く。と、

「"念"が……!」

 吹いた風に踊るようにして、周囲を漂っていた"念"が薄く四散していく。
 壱袈が向きを変え、同じように羽を回すと、やはりその方角の"念"も綺麗に飛び、薄まる。
 その幻想的とも思える光景に、私は感動を覚えつつ、

「隠世警備隊って、こっちでいう警察みたいなものかと思ってた……。あ、でもどうして雅弥みたいに祓わないで散らすの?」

「出来ないからだ」

「出来ない?」

「あやかしは陰。"念"もまた、陰のモノ。影に影が重なることは出来ても、消すことは出来ん」

 濃淡にきらめく金にも見違える髪をなびかせて、壱袈が振り向く。

「さて、彩愛ならどうする」

「え?」

 すっと私に向けられた漆黒の羽。
 くるりと回った刹那、まき上がった風に呑まれたいくつもの"念"が、風と共に私に向かってきた。

「わっ!?」

 咄嗟に腕を上げ顔を覆う。
 瞬時に抜けた風。なびいた髪が背に戻るのを感じながら私は腕を開き、

「ちょっと壱袈なにして――うそ」

 絶句。開いた視界の先。佇む壱袈の姿が、黒い靄でよく見えない。
 壱袈を? 違う。"念"が取り囲んでいるのは、私。

 ――のまれた。

 悟ると同時に、肩からキュウと弱々しい声がした。子狐ちゃんだ。
 ぐったりと伏せる身体が肩から滑り落ちそうになり、私は慌てて掌で受け止める。
 きつく閉じられた眼。苦悶に丸まる身体。伏せられた耳。

「しっかりして……っ!」

 苦し気に呻く身体をさすってみるも、子狐ちゃんはくう、と力なく小さく鳴くだけ。

(どうして急に――)

「もしかしてこれ"念"のせい……!?」

「その小さき式では、これだけの濃さには耐えられぬだろうな」

「! 壱袈……っ」