熱海温泉つくも神様のお宿で花嫁が、笑顔の花を咲かせます!

 


 ♨ ♨ ♨



「ここ、は…………?」

「あ! 政宗、目が覚めた?」


 それから四日が過ぎた頃、まずは政宗が先に目を覚ました。


「おま、えは……ってことは、まさかここは、あのボロ宿じゃ──」

「ああ、ダメダメ! そんな急に身体を起こしちゃ! まだ神力も完全に戻ったわけじゃないみたいだし、もう少し寝ていなきゃ!」


 起き上がろうとした政宗を花が慌てて止めれば、まだ身体の自由が効かない政宗は仰向けのまま不本意そうに小さく呻いた。


「なんで俺はまた、つくもなんかに……」

「ニャン吉殿が、政宗坊を担いでつくもに戻ってこられたのですよ」

「ニャン吉が……?」

「はい。酷い雨の中、動けなくなった政宗坊をひとりで背負って、ここまで必死に帰ってこられたのです」


 花と一緒にいた黒桜が状況を説明すれば、政宗は眉をひそめて難しい顔をした。


「それが本当だっていうなら、その肝心のニャン吉は今どこにいる?」

「ニャン吉くんは疲れきってて、今はまだ寝てるの。神力が完全に戻るまでには、あと一日は眠り続ける必要があるってぽん太さんが言ってたから、今日はこのままそっとしておいてあげて」


 政宗よりもニャン吉のほうが重症だったのだ。

 花は手桶の水で手早く手ぬぐいを絞ると、そっと政宗の額の汗を拭った。


「──っ、やめろ! 俺はもう、ここで世話になる義理はねぇ!」


 けれど、そんな花の手を振り払おうと政宗が吠える。

 ただ、神力が回復しきっていないせいで咆哮(ほうこう)は弱々しく、花は一瞬あっけに取られたあとで息を吐くと、改めて政宗の横で姿勢を正した。


「あのさ。そうやって、いつまで意地を張ってるつもり?」

「なんだと……?」

「相手を必要以上に威嚇して、自分から遠ざけて……。挙句に、ひとりで勝手にここを飛び出して行って、ニャン吉くんを困らせた上に守られて、ニャン吉くんはそのせいで今もまだ眠ってるんだよ?」


 花が諭すように政宗に問い掛ければ、政宗は罰が悪そうに顔を横に逸らした。


「それは……全部、あいつが勝手にやったことだろう」

「うん、そうだね。多分ニャン吉くんも、自分が勝手にやったことだって政宗のことを庇うと思う」

「だったら……っ!」

「でも! ニャン吉くんだけじゃなく八雲さんだって、神成苑に連れ戻されそうになった政宗を、つくもで面倒見るって言って庇ってくれたんだよ?」

「八雲の野郎が、俺を庇っただと……?」

「そうだよ。それ以外にもぽん太さんだって、戻らないふたりのために、熱海の知り合いに声をかけてくれてたんだから……」


 これはあとあと黒桜から聞かされたことなのだが、ぽん太は政宗たちが飛び出して行った日の夜には、ふたりが現世に出たことに気がついていたらしい。

『なので、熱海に住む神々やあやかしの知り合いに、ふたりを見かけたらつくもへ導いてくれるようにと頼んでいたのですよ』

 だからぽん太はふたりを心配する花に、「大丈夫」だと言っていたのだ。

 花に詳しい事情を説明しなかったのは、ふたりが現世に行ったと聞いたら、花は絶対に探しに行くと言ってきかなかっただろう、と予想したかららしい。

 
 


「黒桜さんだって、政宗が寝込んでいる間もずっと、気にかけて看病してくれてたんだよ」

「…………」

「政宗の言い分は、全部余計なお世話だとか、自分の好き勝手にやらせろってことなんだろうけど。でも、だったらこんなふうに、周りに心配や迷惑をかけてちゃダメでしょ。例え政宗が言うことが正論だったとしても、今の状況じゃ、全部身勝手なワガママにしか聞こえないよ」

「テ、テメェ、偉そうに……っ」


 花がピシャリと言ってのければ、政宗は悔しそうに呻いた。

 寝込んでいた数日間で、小さな龍の姿だった政宗の身体は、すっかりと人の姿に戻っていた。

 しかし身体に力が入らないせいで、起き上がることは叶わない。

 眉間に深いシワを寄せた政宗を見ながら、花は再び小さく息を吐いた。


「とにかく政宗坊も、まだ神力が完全には戻っておりませんので、あと半日は安静でいる必要があります」


 続けて黒桜も、いつも通りの飄々とした調子で政宗を諌める。


「黒桜。テメェまで、偉そうに俺に指図しやがって……」


 政宗は拳を強く握ったが、やはり身体は動かない。

 そんな政宗の横で正座をして姿勢を正した黒桜は、至極冷静に政宗と向き合いながら言葉を続けた。


「ああ、それと、先日の答えを今、お伝えしてもよろしいでしょうか?」

「先日の答えだと?」

「はい。私が、“本当はこんなところで働くなんて、ごめんだと思ってるんじゃないのか?”という、質問の答えです」


 黒桜の言葉に、政宗が片眉を上げて驚いた顔をする。

 そんな政宗を前に、黒桜はとても静かに微笑んだ。


「私は……確かに政宗坊の言うとおり、ここへ来たばかりの頃は、私を焼き払おうとした人や、私をこの場所に縛り付ける常世の神、くだらない仕来りを始めとした多くのものを恨んでおりました」


 そうして黒桜は、ゆっくりと今の自分の思いの丈を語り始めた。

 何かを懐かしむように細められた目は、穏やかに政宗を見つめている。


「私はずっと、過去と向き会うのが怖かったのです。また昔のように怒りに飲まれて我を忘れ、他者を傷つけてしまうのではないかと、自分の弱さを恐れていました」


 だから黒桜は、現世に出るのを避け続けていたのだ。
 
 その昔、自分が住んでいた世界と、憎んでいた人が暮らす場所に降り立つのが怖かった。


「けれど結局、すべては(おのれ)次第なのだと気が付きました」

「己次第、だと……?」

「ええ。私は弱い。けれどそれが、私なのだと。未熟な自分に苦しんだ過去があるからこそ、今の幸せな自分がいるのだと開き直ったら、不思議ともう、嫌な気はしないのです」


 胸に手を当てた黒桜は、そっとまつ毛を伏せると柔らかな笑みを浮かべた。

 いつまでも過去に囚われたままでいるのか、過去を受け入れ前を向くかは自分次第だということだ。


「もちろん、前者が悪いというわけではありません。しかし私は、今の私が好きなのです。そして、今の自分は幸せだと気づかせてくれたこの場所が……つくものことが、私はとても大切なのです」


 言葉にすると心地が良い。

 フッと息を吐いた黒桜は、花がこれまで見てきた中でも会心の笑みを浮かべた。


「私はもう、自分の弱さに怯えることはないでしょう。大切なものを裏切るようなことはしないと、今度こそ常世の神に誓って言えますから」

「ハッ……馬鹿馬鹿しい、綺麗事だ」

「ええ、そうですね。他者から見れば馬鹿馬鹿しい綺麗事かもしれません。でも、政宗坊にもいつか、"自分は幸せだ"と感じられる日がくることを、私は心から願っております」

「……っ、偉そうにっ」


 そうして黒桜はゆっくりと立ち上がると踵を返した。


「フフッ、答えが長くなって申し訳ありません。では、私は政宗坊が目覚められたことを皆に伝えながら、ちょう助殿に何か食べられるものを頼んできますね」


 けれど、そう言った黒桜はすぐに立ち止まると、再び、布団の上に横たわる政宗を振り返った。

 
 


「……そうそう。おふたりがつくもに戻られてから、花さんは仲居の仕事と両立しながら、夜の睡眠時間も削って、おふたりを懸命に看病しておられましたよ」


 揶揄うように言った黒桜は着物の袖で口元を隠し、颯爽と部屋を出ていった。

 当の政宗は案の定、居心地が悪そうに顔を歪めている。

 花はそんな政宗を見て困ったように小さく笑うと、言葉を選びながら再び政宗に問いかけた。


「ねぇ、政宗はさ。どうして現世に行きたかったの?」


 こんなことを聞いても、政宗は答えてくれないだろう。

 わかっていても、花は聞くなら今しかないと思った。

 しかし、案の定、政宗は答えない。

(待つ、か……)

 花は、そんな政宗の横に腰を下ろしたままで、ひたすらに政宗の答えを待った。

 そうして一分が過ぎ、二分が過ぎ……。沈黙が三分ほど続いた頃、とうとう根負けした政宗が、不本意そうに口を開いた。


「別に…………ただ、見たかっただけだ」

「見たかっただけ?」

「死んだ母親が、恋い焦がれた世界を見てみたかった。骨になっても帰りたいと願った場所に、ただなんとなく興味があったって、それだけだ」


 予想を越える素直な答えに、花は咄嗟に返す言葉に詰まってしまった。

 政宗なりに、花に感謝の意を表すつもりで正直な胸の内を吐露したのだろう。

 政宗のプライドの高さを考えれば、きっと、忸怩(じくじ)たる思いであることは察するに余りある。


「でも、それなら何も、神成苑の若旦那まで辞める必要はないよね?」

「親父の意見に賛成できないのに、若旦那を続けて親父の跡を継ぐ方が理にかなわないだろう」

「それは……まぁ、確かにそうかもしれないけど。でも、それで本当に若旦那を辞めて現世に移り住んだとして、政宗はどうやって生活していくつもりなのよ?」

「……そんなもんは、YouTuberってやつになれば、なんとかなるだろうと思ってた」

「YouTuber⁉」

「現世で今一番流行っている仕事がそれだと、前に黒百合が言ってたんだよ。だから、現世に行ったら、それを生業にしようと思ってたんだ」


 思いもよらない言葉に、花は唖然として返す言葉を失った。

 対して政宗は、罰が悪そうにプイッと顔を反対に逸らしてしまう。

(まさか政宗が、現世でYouTuberになろうと思っていたとは……)

 あまりにも意外すぎる。というか、ちょっと面白い。

 当の政宗も、自分が浅慮だったことを今回の現世体験で思い知ったのだろう。

 上を向いている耳は、隠しきれないくらいに赤く染まっていた。

 
 
 


「政宗がYouTuber……」


 花は堪えきれずに、思わず「プッ!」と噴き出した。


「ふ……っ、アハハッ。仮にも龍神様がYouTuberって……っ。うん、めちゃくちゃ再生回数稼げそう! 多分、世界初の神様系YouTuberだよ!」


 花が笑えば、政宗は「笑うな!」と吠えたが、それ以上は噛み付いてはこなかった。

 黒百合に揶揄(からか)われていたのだということを、政宗も今回の現世の旅の途中で気がついたのだろう。

 政宗の意外にも純粋な一面を見た花は、いつの間にか政宗に対する壁のようなものを感じなくなっていた。


「あー……。なんか……いつも、今みたいに弱ってたらいいのに」

「テ、テメェ……っ。さっきから聞いてりゃ、人のことを馬鹿にして笑ったり、調子に乗りやがって……っ」


 政宗はまた花を威嚇したが、羞恥で赤く染まった顔で吠えられても怖くもなんともない。


「ごめんごめん。だけど、今みたいにしてくれてたら、すごく話しやすいんだもん」

「ケッ……」

「でも……うん。私、政宗が起きたら一番に謝らなきゃいけないと思ってたことがあったんだ」

「俺に謝らなきゃならねぇことだ……?」


 そこまで言うと改めて姿勢を正した花は、真っ直ぐに政宗の瞳を見つめた。


「まず、私、黒百合さんから政宗のお父さんと……お母さんのこと、聞いた。勝手に聞いちゃって、本当にごめんね。あと、話を聞いたあと、事情も知らない私が家族のことを色々言ったら、政宗が怒るのはもっともだと思った。本当にごめん」


 座ったままで花が頭を下げれば、政宗は眉根を寄せて天井を見上げた。


「でも私は話を聞いて、政宗は間違ってないと思ったよ」

「あ?」


 花が断言すると、政宗は驚いたように目を見開いて固まった。

 そんな政宗を見て静かに微笑んだ花はまつ毛を伏せると、膝の上に載せた自身の手を見つめて、再びぽつりぽつりと話し始める。


「実は私もね、お母さんを七歳のときに亡くしてるんだ」

「お前も母親を……?」

「うん。それで、大学を卒業するまでは父とふたり暮らしだったんだけど。そのお父さんが、超がつくほどのお人好しでさ。おかげで、私は子供の頃から貧乏生活を余儀なくされて……。その影響で今でも、食い意地だけはいっちょ前なんだよね」


 ヘヘッと花が声を零して笑えば、政宗は返事に困った様子で難しい顔をした。


「でもね、私はお父さんのことは恨んでないよ。そりゃ、色々不満に思うことはあったけど、なんだかんだいっても、お父さんが私を愛してくれて、大切にしてくれてたことを知ってるし、私もお父さんのことが大好きだから」


 顔を上げた花は、もう一度真っ直ぐに政宗の瞳を見つめる。


「本当は政宗も……お父さんのこと、嫌いってわけではないんでしょう?」

「なにを……っ」

「私、ここに戻ってきたニャン吉くんの話を聞いてから、ずっと考えてた。それで今、政宗の話を聞いて思ったの。政宗は本当は、若旦那を辞めたいなんてこれっぽっちも思ってなくて、いつでも神成苑に連れ戻されてもいいって思ってたから、はじめの頃、つくもでの仕事をわざと適当にやっていたんじゃない?」


 そう考えると、すべての辻褄が合うのだ。

 花の問いに、あからさまに政宗の目が泳いだ。

 それを見て花は、自分の憶測が間違っていないことを確信する。

 そもそも政宗は、『若旦那を辞めて現世で生きていくこと』を認めてもらうために、つくもにやってきた。

 つくもで二ヶ月間真面目に働いて、『ひとりでも生きていけること』が証明できれば、政宗の願いを叶えると、父である神成苑の大旦那が約束したからだ。

 それなのに初めの頃、政宗が一向にやる気を見せないことを、花はずっと不思議に思っていた。

 しかし政宗は最初から、若旦那を辞めて現世で生きていくつもりなどなかったと考えれば、当初の政宗のつくもでの勤務態度の悪さも全て納得がいく。

(政宗は別に、『ひとりでも生きていける』と認められる必要なんてなかったんだ)

 本来であれば仕事ができるはずなのに、敢えて手を抜き続けていたのも、自分の父である神成苑の大旦那に『認められない』ためだったのだ。

 
 


「それと、もうひとつ……。私と八雲さんはうまくいくわけないって言ったり、色々と酷いことを言ったのも、本当は私と八雲さんを心配してくれてたからなんでしょう?」


 花が続けて尋ねれば、今度こそ政宗はバツが悪そうに顔を歪めた。

『付喪神同士でもうまくいかねぇんだ。お前と八雲だって、この先どうなるかなんてわかんねぇぞ……っていう、優しい俺からの有り難い忠告だよ』

 思い出すのは、以前に政宗から言われた言葉だ。

 あのときは酷い暴言だとしか思えなかったが、政宗の心の傷を知った今では、その言葉の裏に隠された想いが痛いほどわかる気がした。


「政宗は八雲さんと私が、将来、自分のお父さんとお母さんみたいになるんじゃないかってことを心配して、忠告してくれてたんだよね?」


 確信を持って花が政宗に問えば、政宗は、「ほんと、テメェの頭の中はお花畑なんじゃねぇの?」と(うそぶ)いた。

 
「ねぇ、政宗。もう一度、お父さんとよく話したほうがいいと思う」


 花がこんなことを言うのは、それこそ余計なお世話かもしれない。

 それでも不器用な政宗を見ていたら、花は言わずにはいられなかった。


「政宗……?」

「……お前は、本当に変な女だな」

「え……?」

「思い込みで勝手に人のことをアレコレと決めつけやがって。本当に……呆れるくらいにノーテンキで、馬鹿な女だ」


 と、不意に口を開いた政宗は、どこか遠くを見るような目で天井を見上げ、「ふぅ」と短く息を吐いた。


「俺だって……話す前はいつも、冷静に話そうと思ってるんだ。だけど親父を前にすると、お互いに感情的になって……。結局、いつも最後には感情のぶつけ合いと、罵り合いになるんだよ」


 諦めを浮かべた表情で、政宗が苦笑する。

 花の胸は鋭い針で刺されたように、チクリと痛んだ。

 これまで政宗は、何度も父と向き合おうとしてきたのだ。

(だけど気がつくといつも言い争いになって、言いたいことの半分も相手には言えなくて、悩んでたんだ……)


「わかったらもう、余計なお節介は──」

「うん、政宗! 言いたいことはよくわかったよ!」

「おあっ⁉」


 唐突に叫んだ花は政宗の言葉を切って身を乗り出すと、動けない政宗の頬を両手で挟んで瞳の奥を覗き込んだ。


「な……っ、テメェッ! いきなり何しやがる──」

「今、政宗が言ったとおり。もし、感情的になって話せる自信がないなら、私でよければ、そのときはそばにいるよ!」

「ハ、ハァ⁉」


 突拍子もない花の言葉に、政宗は狐につままれたような顔をして固まってしまう。


「だって、さっきも言ったけど、私は政宗は間違ってないと思うし。だから、いざとなったら私も一緒に政宗のお父さんに抗議する! それで、私が感情的になりそうだったら、そのときは政宗が止めて! そしたらほら、政宗は逆に、冷静にお父さんと話ができるかもしれないでしょ?」


 興奮しきった花が「フンッ!」と鼻息を荒くすれば、政宗は呆気にとられた様子で花の顔をまじまじと眺めた。

 けれど、すぐに「フッ」と息をこぼすと、花に両頬を掴まれたままで柄にもなくケラケラと笑いだした。


「政宗?」

「バ……ッカじゃねぇの? 付き添いのはずのお前が、なんで感情的になるんだよ。頼りなさすぎだろ!」

「い、いやいや。もしも政宗が感情的になったときには、責任持って私が止めるし!」

「どーだかな。そもそも俺が龍神になった姿を見てビビってたような奴が、マジもんの龍神な親父に立ち向かえるはずがねぇだろ。ちったー考えろよな」

「う……。そりゃ、確かにそうかもしれないけど……」


 つい口籠った花は、続く言葉を頭の中で必死に探した。

 確かにマジもんの龍神には会ったことがないので怖い気持ちもある。

 それでも、花は──。


「とりあえずもう、政宗のことは怖くないし」

「……ハァ?」

「それに、やっぱりこのまま見てみぬふりで、放っておくことなんてできないから……。だから、私は政宗にはもう一度、お父さんときちんと話してほしい」


 花が政宗の頬から手を離してつぶやけば、政宗はそっと目を細めて花の顔を静かに見つめた。

 その眼差しには、政宗が初めて抱く感情が滲んでいる。

 
 

「……俺は別に、お前に親父のことで協力してもらう義理はねぇけど?」


 胸の奥のざわめきに気づいた政宗は、花からそっと目を逸らした。

 対して鈍い花は「うーん」と色気無く唸ったあとで、ハッと何かを思い出したように瞳を瞬かせると、再び嬉々とした様子で政宗の顔を覗きこんだ。


「……っ! だからお前はイチイチ顔を近づけんなって──!」

「それは、ほら、タオルのお礼よ!」

「タオルの礼だぁ?」

「そう! 政宗の助言通り、大浴場にもタオルを置くようにしたら、お客様たちが喜んでくれたの! だから私が政宗に協力するのは、そのタオルのお礼! ねっ、これなら納得でしょう?」


 フフンと自慢気に鼻を鳴らした花を前に、政宗は今度こそ呆気にとられた顔をした。

 しかし、すぐに我に返ると複雑な気持ちで花の顔を眺め、再び短く息を吐く。


「なんだかなぁ……」

「何よ? まだ何かあるの?」

「まぁ……あるといえばあるな。そもそも、テメェは八雲の嫁だろう。他人の家のことに勝手に首を突っ込んで、今度はテメェの旦那が怒りだすんじゃね?」

「え……」


 唐突に飛び出した八雲の名前に、花の胸の鼓動がドクンと跳ねた。

 ここ最近の花は、八雲に対する想いと自分の置かれた現実とで揺れ動き、八雲ともギクシャクした関係が続いていたのだ。


「べ、別に……。私が政宗のことに首を突っ込んだからって、八雲さんが怒るなんてことはないと思うけど──」

「──政宗、ようやく目覚めたようだな」


 と、そのとき。まるで花の動揺に(いざな)われたが如く聞き慣れた声が聞こえて、花は慌てて口を噤んで肩を揺らした。

 ゆっくりと振り返れば案の定、部屋の前に八雲が立っている。


「ケッ、噂をすればなんとやらだな」


 花の心臓は、早鐘を打つように高鳴り始めた。

 鶯色の着流しをまとった八雲は、今日も凜としていて目が眩むほどに美しい。

 
 

「その様子では、神力さえ戻れば問題なく動けそうだな」


 歩を進めた八雲はそれだけ言うと、枝に止まる蝶のように、とても静かに花の隣に腰を下ろした。

(み、右側が異常に熱い……。というか、いつから話を聞かれていたんだろう)

 意識すればするほど、花は八雲の方を見られなくなってしまう。

 対する八雲も敢えて花のほうを見ようとはせず、膝の上で拳を握って、雑念を払うように政宗を見据えていた。


「……なんだかなぁ」


 そんなふたりの機微に目敏く気づいた政宗は、居心地が悪そうに溜め息をついて目を閉じる。 


「お前らも、俺と親父も、結局は"キッカケ"が必要なんだろうなぁ」

「……キッカケ?」


 つぶやかれた言葉に、花と八雲の声が重なった。

 政宗は改めてふたりを見ると、呆れたように目を眇めた。


「だから。さっきテメェが言ったとおり、もう一度話し合う場合も、お互いに腹を割って話せるようなキッカケさえあれば、何か状況が変わるんじゃねぇかと思っただけだ」


 ──お互いに腹を割って話せるようなキッカケ。

 そういえば約一ヶ月前、つくもを訪れた付喪神の夫婦を仲直りさせるために、花たちはキッカケ作りに励んだのだ。

(確かあのときは、いつもとは少し違った環境にしようって話してて……)

 つくもでは初めての、朝食を現世(そと)で食べるという策に打って出た。

 結果としては、いろいろなハプニングはあったが大成功に終わったのだ。

(もしもあのふたりみたいに、政宗親子もいつもとは違った環境で話し合えれば、何か変わるのかも?)

 感情的にならず、お互いの話にきちんと耳を傾けられるかもしれない。


「あ……」


 と、そこまで考えた花は、不意に閃き声を上げると、瞳を輝かせながら八雲と政宗を交互に見た。

 
 


「それなら、お祭りなんてどうかな⁉」

「お祭り?」

「……って、どういうことだよ」


 珍しく、八雲と政宗の息があった。

 花は再び姿勢を正して精一杯興奮を押し込めると、つい先日、ぽん太と黒桜と話したことを頭の中に思い浮かべた。


「うん! ほら、もうすぐ現世の熱海では、こがし祭りがあるでしょ? そのときに、つくもでは何もしないって聞いたんだけど、私は何かできたらいいなって思って……」


 とはいえ、当日は目の回るような忙しさになることは決定している。

 だから無理なく、それでいてお客様にも楽しんでもらえる企画ができたらいいと、花は密かに思っていたのだ。


「例えばなんですけど、つくもの玄関前のスペースで、ミニ縁日を開催するなんてどうでしょうか?」

「ミニ縁日だぁ?」

「うん! それで、そのミニ縁日には宿泊客はもちろん、熱海に住む神様たちや、たまたま熱海に来ている神様たちも来られるようにするの!」


 食べ物系の屋台をいくつか出して、宿泊客の夕食もそこで食べられるようにすれば一石二鳥というやつだ。


「それで……その縁日に、政宗の父である光秀殿も招待するというわけか」


 花の提案の意図に気づいた八雲は、穏やかな口調で花に尋ねた。


「はい! 縁日ってすごく賑やかで楽しいし、開放感もあるじゃないですか。だから、いつもとは違った空気の中でふたりを会わせられるんじゃないかなって思って!」


 何より、お客様にも喜んでもらえるはずだ。

 一石二鳥どころか、一石三鳥、一石四鳥くらいの価値があるかもしれない。


「つくも縁日作戦……どうでしょうか?」

「名案じゃ!」

「わっ⁉」


 そのとき、ポンっ!という破裂音とともに、お決まりのぽん太がモフモフの尻尾を揺らしながら現れた。


「俺達も、今のアイデアいいと思う!」

「私も賛成です!」


 続いて部屋の扉の向こうから現れたのは、ちょう助に黒桜だ。

 ちょう助の手には政宗のために用意されたお粥が持たれている。

 三人とも、今までの話を聞いていたのだろう。

 一同の賛成を受けた花は更に瞳を輝かせると、もう一度政宗の顔を覗き込んだ。


「ねぇ、政宗。どうかな?」

「……話はわかった。だが、そんなことしたところで、あの頑固親父が話を聞くかどうかはわからねぇぞ?」

「うん。でも、やってみなきゃわからないでしょ? 私達は最後まで政宗の味方だし、ふたりが話し合えるように精一杯協力するから、みんなで縁日作戦やってみようよ!」


 花の眩しい笑顔を見た政宗は、一瞬言葉を失くしてからフッと力が抜けたように破顔した。


「フッ……ハハッ」

「政宗?」


 突然笑い出した政宗の頬が赤い。

 耳にもまた淡い赤が差していたが、それは先程とは違って、胸の高鳴りと連なる色に違いなかった。

 
「……もう、好きにしろ」


 投げやりな言葉には、これまでの政宗にはなかった他者に対する信頼が含まれている。

 それに気づいた花は嬉しそうに八雲を見上げ、久しぶりに花の心からの笑顔を見た八雲もまた、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。



 
 


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「いらっしゃいませー! はい、富士宮(ふじのみや)焼きそば、ふたつですね? 少々お待ちください!」


 七月は十五日。

 その日、熱海の町は年に一度の熱気と賑わいに包まれていた。

 住民のみならず、全国津々浦々から集まった観光客が祭りを盛り上げ、祭囃子や御輿を担ぐ威勢のよい声が、海辺の道を活気づけている。


「ちょう助くーん! こっち、そろそろ野菜が切れそう!」

「了解! あ、桜えび入りのお好み焼きですね! はい、お熱いので気をつけてくださいね。お好みで特性わさびマヨネーズをかけてお召し上がりください!」


 兼ねてより【つくも縁日】の開催を贔屓筋に知らせていたおかげか、その日のつくもは現世に負けじと、かつてない熱気と賑わいに満ち満ちていた。


「おお、花、久しぶりだのぅ! 相変わらず威勢が良いな!」


 静岡自慢のB級グルメ、富士宮焼きそば作りに精を出す花に声をかけたのは掛け軸の付喪神である虎之丞(とらのじょう)だ。

 続いて番傘の付喪神である傘姫(かさひめ)に、国宝でもある薙刀の付喪神の薙光(なぎみつ)と、久々の面々が次々に花のもとへと挨拶にやってきた。


「弁財天様と弁天岩さんは、やっぱり来られないんですかね……」

「あのふたりはのぅ、今日は現世での仕事が忙しいじゃろうし。また改めて顔を出しに来ると言っておったわい」

「そっかぁ……」


 花がシュンと肩を落とす。

 弁財天と弁天岩には、政宗とニャン吉を助けてもらったお礼を言いたいと思っていたのだが、それはまたの機会に持ち越しになりそうだ。 


「おい、ブス! 手が空いたらこっちも手伝え!」

「はいはーい! あ、ぽん太さん、ちょっとここお願いできますか? それと横の、みしまコロッケも追加で作っておいてくれます?」


 花がアレコレとぽん太に言い付ければ、ぽん太は「付喪神使いの荒いやつじゃのぅ〜」と文句を言いながらま、着ている割烹着の袖をまくった。