いつか、眠りにつく日3

「帰ってください」

 はっきりと口にした凛に吉野はムッとしたらしく、
「おい」
 さっきよりも低い声を出した。

「お前、調子に乗ってんなよ。いいから、なかに入れろ」
「嫌です。それ以上近づくと大声を出します」

 まっすぐに吉野を見てから、
「用事はなんですか?」
 と凛ちゃんは尋ねた。

「実はさ、俺、有希子の借金を代わりに返してるんだよ」

 隣で「嘘つき」と有希子さんがつぶやいた。
 吉野はいかにも困ったような顔を貼りつけている。

「だからさ、遺産を少し分けてもらえる? 有希子の通帳ってまだ止められたまま?」
「知りません」
「凛用に作っている通帳もあっただろ。ほら、有希子の親が亡くなったときに作ったやつだよ」
「知りません」

 あくまで単調に答える凛ちゃんに、

 ――ガシャン!

 吉野が門を蹴った。

「いい加減にしろよ! 俺だって有希子の財産を相続する権利があるだろ!」

 不思議だった。凛ちゃんの表情からはなんの動揺も見られない。
 むしろ、どこか吉野を憐れんでいるようにすら見えた。

「ヨシノサン」

 平坦な声で名前を呼んだ凛ちゃんに、
「ん? 思い出したか?」
 吉野の目が光るのを見た。

「残念ながら離婚した以上、あなたは他人です。遺産の権利はもうないんです」
「おいおい、やめてくれよ。この家だってそもそも夫婦の名義だったし、俺にだって権利はあるはずだろ?」
「それがですね、ないんです」

 あっさりと口にした凛ちゃんが門へ近づく。

「危ないよ!」

 叫んでも聞こえるはずもなく、凛ちゃんは吉野のそばまで行くと大きく息を吐いた。

「あなたは離婚の際に、養育費を拒否する代わりに家の権利を放棄しています。弁護士さんはちゃんとした書類に署名したと言っていましたよ」
「な……。あれは、しょうがなくなんだよ。なあ、いいからちょっとだけでいいから貸してくれよ。もちろんすぐに返すから」

 すがるような口調で言う吉野に、凛ちゃんは首を横に振った。

「もう話すことはありません。お帰りください」

 ――ガシャン!

 再び門が蹴られた。

「お前、ふざけんなよ!」
「ふざけていません。もうすぐ警察が来ますよ」
「な……」
「さっき警察に電話したんです。注意されるの、これで何回目ですか?」

 笑みさえ浮かべる凛ちゃんに、吉野は顔を真っ赤にした。

「お前……。俺はあきらめねーぞ」
「あきらめてください。私、引っ越すんです」

 予想もしていなかったのだろう、吉野は絶句したように口をパクパクさせた。
 クロと視線が合った。肩をすくめるクロは知っていたのだろう。

「留学するんです。そのままその国で働くか、戻ってきたとしても違う土地で暮らします。だから、会うのは今日が最後になります」
「おい、なんだよそれ……」
「あなたは最低の父親でした。あ、お待ちください」

 ポケットに入れたスマホを耳に当てると、凛ちゃんは「はい、私です」と吉野を見たまま言った。
「ええ、目の前にいます。今、脅されています。ええ、言われたようにちゃんと録音しました。あと二分ですね。お待ちしています」

 吉野は「ヤバい」と叫んで逃げ出していく。
 それを見送る勝利の笑顔は美しかった。