吉野のアパートに着き、部屋のなかに入ったとたん、私とシロは悲鳴をあげてしまった。
 それは爆睡している吉野の体に有希子さんが馬乗りになり、手に持った包丁を今まさに振りおろそうとしていたから。

 悲鳴に気づいた有希子さんがこっちを見て、
「おはよう」
 とほほ笑んだ。

「ダメです。そんなことしちゃダメです!」

 必死で叫ぶ私に、有希子さんは自分が手にした包丁を眺めてからポイと放り出した。サクッと色の落ちた畳に突き刺さる包丁に、シロがまた悲鳴をあげている。

「やだ、本当に刺すわけないじゃない。もし刺しても、突き抜けるだけでしょう?」

 吉野の体から離れた有希子さんがクスクス笑った。
 そっか、生きている人間にはさわれないんだ……。

「じゃあ、どうして?」
「万が一にも刺せないかなと期待してたの。もう何回も試しているけれどうまくいかないのよね」

 すごいいびきが吉野から聞こえだしたので、私たちは外に出て、アパートの階段に腰をおろした。

 明るくなる空、日の出がまるで夕焼けのように空を染めている。

「きれいね」

 隣で目を細める有希子さんに、「あの」と私は尋ねた。

「有希子さんはどうしてあの人を殺したいんですか?」
「ああ……。やっぱり憎いからでしょうね」

 まるで他人ごとのように口にしたあと、有希子さんは首を横に振った。

「十年前に離婚したときね、本当に壮絶なほど苦労したの。吉野は離婚に応じないし、離婚専門の弁護士を雇って、養育費もなしにしてやっとのことで決まったのよ」
「養育費も?」
「あの人に払えるわけないもん。むしろなにもいらないから、とにかく縁を切りたかったの」

 私にはよくわからないけれど、よほどのことだったんだろうな。

「だから殺したいんですか?」
「まさか。もうあれで縁が切れたはずだった。なのに、私が親の遺産を相続したことを聞きつけたんでしょうね。また姿を見せるようになったの」

 太陽が住宅地の向こうに顔を出している。まぶしい光に照らされる有希子さんの表情は曇っている。

「私の病気が発覚してからは、復縁を迫ってくるようになった。暴れたり脅したり……警察沙汰になったりして本当に大変だった。二度と会わないという約束をしたのに、私が死んだとたん、あの人は凛の前にまた姿を表すようになったの」
「そうだったんですか……」
「あの人はね、凛のことなんてちっとも愛していない。ただ、あの子に遺されたお金だけが欲しいのよ。だから凛に会って未練解消をする前に、どうしてもあいつを殺さなくちゃいけないの。わかった?」

 わかった。
 わからない。
 わかるようで……わからない。

 どう答えていいのか迷っていると、有希子さんはまたクスクス笑いだした。