家の屋根が見えてきたので、さりげなく振り返ってクロがいないかチェックする。
 今のうちに我が家を満喫(まんきつ)しよう。

 まずは、ハチだ。
 暗い庭で未だにぼんやりとその体が光っている。私の足音に気づいたのか、ハチは尻尾を振ってダンスするように跳ねて迎えてくれた。

「ハチ、元気だった?」

 なにかおやつでも持ってくればよかったなんて思いながら、
「散歩に行く?」
 と尋ねると、ハチはさらにうれしそうに尻尾を振った。

 クロが戻ってくるかもしれないので急いだほうがいいだろう。
 素早く散歩用のリードに替えていつも散歩コースへ。


 堤防沿いの道は、休日前だからかいつもより人の姿が多く見られた。ウォーキングをする人、私と同じように犬の散歩をしている人、川辺に座っているカップル。
 なんでもない日常がそこにある。

 夜だというのに風が初夏のにおいを含んでいる。木々が主張するように葉を茂らせ、水の流れがさらさらとやさしい音を奏でる。

 これからどうしようかな。
 まずはお父さんとお母さんの顔を見て、それからスマホをチェックしよう。スマホさえ見られれば、友達の連絡先も載っているし写真だってたくさん入っているから、大きな手がかりになるだろう。
 って、スマホは電源が入らなかったっけ。
 スケジュールも音楽も、ぜんぶスマホに入っているんだと改めて知った。機能を集約すると便利なようで、こういうときは致命的だ。

 グイ、とリードがうしろに引っ張られたので振り向くと、ハチが足を止めていた。

「どうしたの?」

 軽く引くけれど、もう一歩も動きたくないときにする姿勢で踏ん張っている。この先にある橋を越えれば、ハチの大好きな公園がある。
 そういえば、前回散歩したときもハチはここで足を止めたっけ?

「ねえハチ――」

 言いかけたとたんに、吐きそうなほどの不快感が喉元にせりあがった。思わず口を押さえてうずくまってしまう。

「なんだろう……。気持ちが悪い」

 耐えられないほどの吐き気を飲みこんで、ギュッと目を閉じた。
 何度も深呼吸をしていると徐々に落ち着いてきた。
 今の、なんだろう……。顔をあげても、暗闇に沈む橋が見えるだけ。橋の手前にある交差点の信号が赤く灯っている。

 脳裏(のうり)になにか映し出されている。
 断片的な記憶はピントが合わない写真を見ているみたい。
 思い出さなくちゃ。ギュッと目を閉じると、写真は徐々に姿を現していく。

「ああ……」

 白い息がふわりと口から生まれた。

 浮かんだ映像は、あの交差点。道を渡ろうとした私に向かってくる車のヘッドライト。
 運転席の男性は目を見開き、口を大きく開いている。

「嫌!」

 首を振り記憶を追い出そうとしても、一度浮かんだ記憶は消えてくれない。