頬を両手で押さえながら志穂さんは続けた。

「いつしか、雨が好きになっていた。同時に、奏太さんのことを好きになっていく自分にも気づいた」

 好きな人の名前を口にするとき、人はやさしい顔になるんだな。
 ふいに、なにかの記憶が頭をかすめた気がしたけれど、思い出そうとするそばから煙のように消えてしまった。

「雨の日にだけ会える、ってロマンチックですね」

 志穂さんが雨のなか、ずっと奏太さんを待っている映像が頭に浮かんだ。

「でも、結局傘は返せなかったんだ。私は違う色の傘を持っていつもここに立っていた。返してしまったら、もう会えなくなりそうで怖かったの」
「それが高校三年生まで続いたのですか?」

 あなたが亡くなるまで、とは聞けなかった。

「わからない。ある日気づいたら、桜の雨が降る日にここでひとりぼっちで泣いていたの。あれからどれくらい経ったのかな? 会いたくて、だけど奏太さんはもう来てくれないの。どんなに待っても来ないの……」

 私もさみしくため息をこぼした。

「きっと私が死んじゃったから、奏太さんは来るのをやめたんだと思う。しょうがないよね……。どんなに待っても会えない。もう、この傘を返すこともできない……」

 きっと傘を返すことが彼女の未練なんだと思った。

「未練解消の期間中に、会いに行かなかったんですか?」
「案内人さんには何度も怒られた。だけど、できなかった。好きな人に、自分が死んだことを言うなんて……できなかったの」

 嗚咽を漏らす志穂さんの肩を抱いた。
 しばらく泣き続けたあと、志穂さんが「でも」と震える声で言った。

「今日は久しぶりに七海ちゃんが声をかけてくれた。だから、すごくうれしかった」

 そう言ったあと、志穂さんは急に顔をしかめたかと思うと、体をぐっと丸くした。

「どうしたんですか?」
「あ、うん。たまに胸のあたりやお腹が気持ち悪くなるの。たぶん、もう私は悪い霊になっているんだと思う」

 苦しそうにあえぐ背中をさするけれど、
「ダメ。今日はすごく苦しい。ああ、苦しい」
 声が低くなっていくのがわかった。
 彼女を包みこんでいる空気が濁った気がした。

「志穂さん、しっかりしてください」
 私の手を解くと、
「危ないから、もう帰って」
 志穂さんは短くそう言った。驚くほど顔色が悪くなっている。

「でも……」
「私はもう大丈夫。お願いだからひとりにして」

 気圧されるように立ちあがると、シロが必死で手招きしている。

「早く早く!」
「じゃあ、また来ます。ありがとうございました」

 膝の間に顔をうずめる志穂さんが、どんな顔をしているのかはわからなかった。