部屋から逃げ出してきたような罪悪感に、思わずため息が出た。
 細い廊下を歩けば、夜の病棟(びょうとう)は静かで足音さえも静寂(せいじゃく)を破らない。
 ロビーへ着くと、すでに照明は落とされていた。受付の奥にある事務室でパソコンを打つ看護師さんのうしろ姿が見えた。私がいることには気づいていないみたい。

 誰とも話す気になれないからちょうどよかった。

 長椅子に座って薄いピンクの壁をぼんやり眺めていると、誰かが隣に座った。
 さっきの葬式業者だ。
 頭の先からつま先まで黒で統一されているせいで、影のように思える。

「誰か亡くなったのか?」

 また同じ質問をしてくる男性を不思議な気持ちで眺めた。
 この人は、誰?

「だから祖母が――」
「本当に?」

 長い足を組む男性に、ようやく感情が動きはじめる。
 失礼な人、失礼な言いかた、失礼な態度。
 悲しみよりも怒りが一気に大きくなる。

「どういう意味ですか? あなたは誰なんですか?」
「強気なんだな」

 ニコリともしない男性の顔を改めて見る。
 二十代半ばくらいか、切れ長の目に、意志を感じられる鋭角(えいかく)の眉、薄い唇は長めの前髪によく似合っている。
 サイドは耳が隠れるくらいで無造作(むぞうさ)に散らしてある。
 イケメンというか、かなりかっこいいのはたしかなこと。

 でも、決して友好的ではない態度は大きなマイナスポイントだ。

「なにを言っているのかわかりません。もう放っておいてください」

 ありったけの拒絶をこめて言うけれど、気にする様子もなく男性は長椅子に体ごともたれて天井を(あお)いだ。

「放っておきたいのはやまやまだけど、これも仕事だし仕方がない」
「すみません、看護師さん」

 事務室にいる看護師さんに助けを求めるけれど、聞こえなかったのか振り向いてくれない。

「看護師さん!」

 大きな声を出しても、彼女はまるで気づいていない様子だった。