ひょいと塀からおりると、クロが近づいてくる。

「珍しいことじゃない。やっかいなのは逆のパターンのときだ。動物の未練解消の相手が人間だとかなり手こずる」
「へ? 動物にも未練解消があるの?」
「当たり前だろ。そういうところが人間の傲慢なところだ。俺からすれば、お前ら人間だってこの犬となんら変わりない」
「そうなんだ……」

 ハチはごろんと横になるといつものようにお腹を見せてきた。
 わしわしとなでまわしていると、リビングにお母さんの姿が見えた。

「ねえクロ。お母さん、なにしてるの?」

 そう聞いたのも無理はないと思う。お母さんはすでについているのに、部屋の電気のスイッチを押し、さらに窓とシャッターを開けるジェスチャーをしているから。

「お前はもう半分この世界にいない。さっきつけた電気も開けた雨戸も、母親のいる現実世界ではされていないことなんだ」
「じゃあ、お母さんは今本当に電気をつけたりしたってこと?」
「そうなる」

 ああ、だからか……。
 昨夜、玄関のチェーンをかけたはずなのに、お父さんが家に入れたのもそのせいだったんだ。
 お母さんは雨戸を開けたあと、なぜか動きを止めてじっと私を見てきた。

「お母さん……」

 ひどく疲れた顔をしている。
 そうだよね。娘が亡くなったんだもの、つらいよね。

「お母さん、私ここにいるんだよ」

 そばに寄るけれど視線が合わない。やがて、お母さんはため息を残して部屋に戻ってしまう。
 目の前で閉められるガラス戸に傷ついている私の顔が映っていた。

「もう二度と、お母さんと話をすることはできないんだね……」
「あっちの世界で待っていれば、いつかは再会できる。母親の幸せを願っていればいい。間違っても地縛霊になんてなるなよ」

 初対面のときよりも若干(じゃっかん)声がやさしくなったように思えるのは、私の気のせいかな。
 ううん、私のほうが慣れたってことなのかも。

「ほら、いいからその犬っころと遊べ」
「え?」
「お前の未練はどうせ、犬と遊ぶとか散歩に行くとかだろ。なんでもいいからやってみろ。ひょっとしたら、本命かもしれない。お前の体が光れば成功だ」

 そっか……。まだ寝転んでいるハチに手を伸ばしてからふと疑問が生まれた。

「でも、散歩とかはどうなるの? 周りの人から、ハチがひとりで町を歩いているように見られない?」

 住宅街をハチが歩く姿が目に浮かんだ。
 周りから私の姿は見えないとしたら、リードが宙に浮かんでいるように見えてしまうんじゃないかな……。