しゃがみこんだまま、意味もなくフローリングを指でさわる。
 その間にお父さんは「ああ」と口にした。見ると通勤鞄からスマホを取り出したところだった。
 私と同じで充電が切れてしまったらしく、キッチンカウンターに置いてある充電器にスマホをセットしている。

「お父さん、あのね、大変なの」

 キッチンへ向かったお父さんは冷蔵庫を開けてなかを(あさ)りだした。
 ようやく違和感が生まれる。

「聞いてる? ね、お父さんってば」

 どんどん血の気が引いていく。
 お父さんはまるで私の声が聞こえていないようなそぶり、ううん、姿すら見えていないみたい。

 さっきの病院でもそうだった。
 事務室にいた看護師さんも私のことを……。
 いや、そんなはずはない。

「ふざけている場合じゃないんだって。お父さん聞いて。ねえ、聞いてよ!」

 壮大(そうだい)なドッキリ企画に巻きこまれているみたいな気分。それならどんなにいいか。そうであってほしい。
 お父さんはビールを片手にソファに腰をおろすと、ネクタイを緩めている。

 私を見ない。見てくれない。

「あれ……」

 そして、気づく。
 玄関の鍵を締めるときにチェーンも一緒にかけたはず。
 なのにどうしてお父さんは家に入ってこられたの?

「お父さん……。お父さん!」

 叫んでも声は届かず、お父さんはひょいとテレビのリモコンを持った。
 テレビがつき、チャンネルを選んでいる。

 どうして見えないの?
 すぐ目の前に立っているのに、どうしてお父さんはテレビの画面が見えているの?
 まるで自分が透明人間になったみたい。

「ねえ、お父さんってば!」

 お父さんの肩をつかもうと手を伸ばした。
 指先は肩に触れることなく体を通り抜けすとんと落ちた。

「嘘……でしょう?」

 何度やっても同じ。
 どんなに触れようとしても、お父さんの体に触れることができない。まるで空気をつかむかのように素通(すどお)りしてしまう。

 なにが……起きているの?

 でも、さっきバッグやスマホには触れられたはず。充電しているスマホを持つと、すんなりと持ちあがった。
 地面が揺れている気がしたけれど、それは私の体が震えているからだった。
 混乱した頭に鋭い痛みが走り、スマホが手から逃げ出した。床で激しい音を立ててもなお、お父さんは気づかない。

 再び違和感を覚えて顔をあげると、お父さんの隣にさっきの白服の男子が立っていた。
 人はあまりにも驚きすぎると悲鳴すら出ないみたい。

「なんで、ここに、いる、の?」

 からからに乾いた声で尋ねると、彼は叱られた子犬みたいに目を伏せた。

「七海ちゃん、ごめん」
「どうして?」

 どうしてここにいるの? どうしてお父さんは私が見えないの? どうして触れられないの? どうして物には触れられるの?
 たくさんの『どうして』を言葉にすることができない。

「ちゃんと説明させてほしいんだ」

 ゆっくりとそう言いながら、男子が私に近づいてくる。混乱した頭でさっきのことが思い出された。
 夜道で、この人を突き飛ばしたはず。
 ということは、この人には触れられるってこと?

「七海ちゃん、あのね――痛い!」

 思いっきり突き飛ばすと、あっけなく彼は床に転がった。
 自分の両手を眺める。
 たしかに手のひらに感覚があった。なのに、どうしてお父さんには触れられないの? 

 なにがなんだかわからないよ。

「出ていって。この家から出ていってよ!」

 うめいている男子を飛び越えリビングを飛び出し、全速力で階段を駆けあがった。
 私の部屋には電話の子機がある。そこから警察に電話をかけよう。警察が来るまでは部屋に鍵をかけて――。