キラキラとしたラメの入ったリップグロスを、唇に塗っていく。口元が明るいチェリーピンクに彩られ、顔全体の印象がぱっと華やいだ。
洗面台の鏡に向かって、にっこりと笑顔を作ってみる。
──よぉし、完璧!
 さすがは、テレビCMでやっていたリップグロス。高校生のときから持っていたプチプラコスメの口紅に比べ、色も質感もパッケージデザインも、一回りも二回りも大人っぽかった。
これならきっと、明歩もすぐに気づくだろう。早く見せたくてたまらない。
 鼻歌を歌いながら、洗面所を出ようと振り向いた瞬間、入ってきたお父さんとぶつかりそうになり、未桜は「わあっ!」と素っ頓狂な声を上げた。
「び、びっくりしたぁ」
「ああ、ごめん、ここにいたのか。てっきり、もう外出したのかと」
「出かけるなら、いってきますくらい言うよ!」
「言わなかった時期もあったじゃないか。それもつい最近」
 お父さんが拗ねたように言う。「あっ、確かに。その節はすみませんでした」とぺこりと頭を下げた未桜の口元を見て、お父さんが「おっ」と眉を上げた。
「さっそくつけたのか」
「あ、うん! すごく気に入った。どうもありがとう」
「それはよかった。テレビを見ながら、『いいなぁ、ほしいなぁ』って何度も言ってたもんな」
「えっ、私、そんなに独り言多かった?」
「いつものことじゃないか。自覚してなかったのか?」
 お父さんが呆れた顔をした。「まあ、おかげで未桜のほしいものが分かって、こっちとしては助かったんだけどな」と付け加える。
「でもさ。本当は、もっと驚いてもらえると思ってたんだよ。自分で言うのもあれだけど、俺、娘のために化粧品を買うなんて柄じゃないだろ? それなのに、未桜が『あ、それほしかったんだ、ありがと!』って拍子抜けするほどあっさり受け取るもんだから……ちょっと残念だったな」
「ええっ、そんなこと言われても! うーん、なんでかなぁ……お父さんがこのリップグロスを入学祝いにくれそうだってこと、なんとなく分かってたというか、予想がついてたんだよね」
 くそぉ、とお父さんが悔しそうに顔をしかめる。
「それは……やっぱり……香(かおり)さんとデパートにいる現場を目撃されたから?」
「ううん、それは全然! お父さんが恋人にねだられて、高価なプレゼントを買ってあげてるんだと思い込んでたもん。私、すごくショックだったんだよ?」
「だからあれは違うんだって!」
「だからそれは分かってるって!」
 お父さんから、しつこいほど何度も説明を受けた。あの女の人は、佐藤香さんという職場の事務員さん。今の会社に来る前にフェイシャルエステサロンで働いていたから、化粧品にとても詳しい。娘に喜ばれる入学祝いをあげたいと悩んでいたものの、テレビCMのだいたいのイメージしか覚えていなかったお父さんから情報を引き出し、「あの人気女優が出てる……口紅の色は五つくらいで……ブランドのロゴは金色だったか……」という曖昧すぎるヒントから、リップグロスのブランド名と商品名を瞬く間に特定してくれたのだという。
 倒れる前は絶賛喧嘩中だったけれど、未桜とお父さんの関係は、すっかり元通りになっていた。
 病院のベッドで目を覚まし、いろいろな検査を終えた後のことだった。突然お父さんにスマートフォンの画面を見せられて、とても驚いた。
 なぜかって、お父さんが電話で恋人に向けて語ったのだとばかり思っていた台詞が、メッセージアプリのトーク画面に、そっくりそのまま並んでいたから。
しかも、送信相手は、二年前に亡くなったお母さん。
右手の指を怪我しているから、スマートフォンの音声入力機能を使って愛のメッセージを一方的に送っていたというのが、事の真相だった。(こんな誤字脱字だらけの文章を送りつけられて、お母さんは今頃とても困っていると思う。もし天国でもメッセージが受け取れるのだとしたら、だけれど。)
ただ、未桜はそれでも完全には納得できなかった。「デパートで一緒にいた女の人と付き合ってるんじゃないの?」と尋ねると、お父さんは最初、わけが分からない様子で目を白黒させていた。そしてすぐに未桜のもう一つの勘違いに気づき、「これを買いにいってたんだ。入学おめでとう」と、小さな水色の紙袋を差し出してきた。
その中に入っていたのが、このリップグロスだった。
お父さんは、入学祝いが渡せずじまいになっていたことをすごく後悔していたのだという。だからリップグロスの紙袋を千羽鶴代わりに病室に持ってきて、未桜が意識を取り戻すことをずっと祈っていたのだと言っていた。
未桜が四日間の昏睡(こんすい)から無事に目覚めることができたのは、会社を休んだり早退したりして、毎日長時間見舞ってくれていた父のおかげなのかもしれない。
「変だなぁ。じゃあどうして、俺がリップグロスを贈るつもりだと分かったんだろう。そんなこと、おくびにも出さなかったのに。未桜は恐ろしいほど勘が鋭いなぁ」
「いや、そうじゃなくて……お父さんが化粧品を買ってくれるなんてものすごく意外だし、普通に考えたら予想がつくわけがないんだけど……なんというか……」
 上手く説明できない、おかしな感覚だった。
 お父さんが自分のためにリップグロスを買ってくれたということを、誰かにあらかじめ知らされていたような、でもそのことを忘れかけているような。──お父さんとは何日もずっと喧嘩中で、その間に倒れて意識不明になってしまったのだから、そんなことは絶対にありえないのだけれど。
昏睡している間に、変な夢でも見たのかもしれない。
「それにしてもさぁ、お父さんが未だにお母さんにメッセージを送り続けてるなんてね。しかも、付き合い立てのカップルみたいにアッツアツの」
 話題を変えると、お父さんはあからさまに動揺し、目を泳がせた。
「からかうのはやめてくれよ! あれを未桜に聞かれたと思うと、今も恥ずかしくてたまらないんだ。……実は、部屋から出てきた未桜に怒鳴られたとき、恋人の存在を疑われたとはすぐに分からなくてさ。お母さんへの愛の言葉が気持ち悪すぎて、ドン引きされたのかと思った」
「そんなわけないじゃん! 相手がお母さんだと知ってたら、あんなふうに怒らなかったよ!」
 思わず苦笑する。「いやあ、その点だけは本当によかった」と胸を撫で下ろすお父さんが、やけに可愛らしく見えた。
「あのね、お父さん」
「ん? どうした」
「ちょっと、考え直してみたんだけど。私……お父さんが再婚するなら、ちゃんと応援するよ。もう、今回みたいに嫌がったりしないから」
 未桜が真剣に告げると、お父さんはきょとんとした顔をした。
「さっきも言っただろ? 香さんとは何もないんだ。彼女に限らず、別の女の人との再婚なんて、考えたこともない。お父さんの恋人は、お母さんだよ。これからもずっと」
「でもさ、人生は長いんだよ? 私がいなくなったら、お父さん、一人になっちゃうでしょ。一緒に暮らしたいなって思える女性が現れたら、捕まえておいたほうがいいよ」
「おいおい、なんで未桜がいなくなる前提なんだよ。もしや、近々同棲を考えてる男がいるとか⁉」
「そんな予定はないけどね。でもまあ──」
 どうして急に「私がいなくなったら」などということを言い出したのか、自分でもよく分からなかった。同棲や結婚どころか、彼氏さえもいないのに。
 でもたぶん、これから先は、そういうことも考えていかなくてはならない。お父さんと私、どちらかがいなくなったとしても、残された一人には長い人生が残されているのだから。
「──『いつまでもあると思うな娘と金』ってことで」
「それじゃ字余りだぞ、字余り」
 お父さんが呆れたように目を細める。男との同棲を否定したからか、その声にはほっとした響きが混じっていた。
 じゃ、そろそろ行くんだろ──と話に区切りをつけようとするお父さんの前に一歩進み出て、ダメ押しする。
「その、香さんとか、どうかな?」
「は?」
「デパートで見かけたときの印象だと……たぶんだけど、香さんは、お父さんのことが好きなんじゃないかな。お父さんの荷物を持とうとしたり、じゃれ合おうとしたり、すごく積極的に見えたし。それに普通、職場の同僚が娘へのプレゼントを選ぶのに、わざわざ休日に付き合ったりしないよね」
 お父さんは、目を真ん丸にしていた。
鈍感な人だ。これじゃ、結婚する前はお母さんも苦労しただろうな──と考える。二人の馴れ初めは、きちんと聞いたことがないけれど。
 しばらく逡巡した後、お父さんは洗面所の壁に視線をやり、言いにくそうに口を開いた。
「考えたこともなかったけど……うん。未桜がそう言うなら、頭の片隅にでも置いておくことにするよ。いつか──まだ全然考えられないけど、いつかそういう日が来たら、必ず報告する」
「ありがとう。待ってるね」
 もじもじとしているお父さんの脇をすり抜け、未桜は洗面所から出た。ダイニングの椅子にかけておいたショルダーバッグを取りにいき、大事なリップグロスを中にしまって、玄関へと向かう。
 お父さんの声が、背中に飛んできた。
「いってらっしゃい。まだ病み上がりなんだから、あまり遅くならないようにな」
「はーい! 今日はこのへんで遊ぶから大丈夫!」
 いってきます──と叫ぶと同時にドアを開け、未桜は明るい太陽光の下に飛び出した。