今まで十九年間生きてきて、全然、知らなかった。
現世と来世の狭間──“この世”とはまったく違う世界で、自分のことを待っていてくれた人がいたなんて。
自分が生まれたときから、無条件に自分のことを愛してくれていた人が、お父さんとお母さんのほかに、もう一人いたなんて。
「……どうかな? さっきも言ったけど、無理にとは言わないよ。もし来世でやりたいことがあるなら、そっちを優先してくれて構わな──」
マスターが言葉を止め、切れ長の目を大きく見開く。
驚きの色が浮かぶ漆黒の瞳に見つめられながら、未桜はカップいっぱいのホットスカウトチョコレートを、勢いよく飲み干した。
ちょうどいい温かさで、ほんのり甘くて、口の中に幸せな余韻を残す、特別なホットチョコレート。
もったいないくらい急いで飲んでしまったけれど、未桜のためにこのドリンクを作ってくれたマスターの思いは、十分に伝わってきた。
ごちそうさまでした、とカップを置く。
「やったぁ! スカウト成功です! 僕たち、未桜さんとまた、一緒に働けるんですねっ!」
アサくんが歓声を上げる。「ほら、どうしちゃったんですかマスター!」と黒いベストの裾を引っ張られて、マスターがようやく笑顔を見せた。
「ありがとう。オファーを受け入れてもらえて、すごく嬉しいよ」
「こちらこそ!」
堂々と答えてから、急に気恥ずかしくなり、目を逸らす。アサくんがわざとらしく、ヒューヒューと口笛を吹いた。
そのとき、ふと、あることに気がついた。
「どうした、未桜さん?」
いつの間にか、微笑んでしまっていたらしい。マスターに怪訝そうに尋ねられ、未桜は慌てて答えた。
「あ、いえ、ちょっとしたことなんです。この日本三十号店って、まさに私のお店だなぁ、と思って」
「というと?」
「30(みお)、だから。そして、30(さわ)、でもある」
指で数字を示しながら言うと、マスターとアサくんが同時に「おお」と声を上げた。
「全然気づかなかったよ。面白いね、“器”と“魂”の関係は。来世喫茶店の店主としてはベテランの域に達しつつある僕でも、まだまだ分からないことがたくさんある」
「運命、感じません?」
「うん。十九年と少し前、君に初めて会ったときから他人という感じがしなかったんだけど、これがヒントだったのかもしれないな」
未桜とマスターは、顔を見合わせて笑った。
ホットスカウトチョコレート。
それは、別れの寂しさが吹き飛ぶような、この上なく素晴らしいプレゼントだった。
「本当に、お世話になりました」
外では、すっかり夜が明けたらしい。窓から差し込む金色の朝日を受け、マスターの端整な顔は、いつもよりもずっと輝いてみえた。
「二年後に、待ってるよ」
マスターの口が動く。送り出された言葉を、未桜はしっかりと受け取った。
「はい!」
じゃあそろそろ行きましょうか──と、アサくんが手招きをする。
天使のような薄茶色の髪の少年に続いて、未桜は来世喫茶店を後にした。
全身に朝日を浴びながら、芝生に挟まれた白い小道を歩く。
その中ほどで、少年がこちらを振り向いた。
「準備は、いいですか?」
「うん……お願いします」
「……では」
小さな手が、別れを惜しむように、未桜の手首に触れる。
芝生の黄緑色と、空の青が、混じり合って揺らめいた。
白く染まった視界の端で、少年が首から下げた砂時計をひっくり返す。
またね、という鈴の鳴るような声が、未桜の耳をくすぐった。
「……未桜!」
誰かに声を呼ばれ、ゆっくりと、重いまぶたを持ち上げる。
──あっ。
久しぶりに聞く、父の声だ。
現世と来世の狭間──“この世”とはまったく違う世界で、自分のことを待っていてくれた人がいたなんて。
自分が生まれたときから、無条件に自分のことを愛してくれていた人が、お父さんとお母さんのほかに、もう一人いたなんて。
「……どうかな? さっきも言ったけど、無理にとは言わないよ。もし来世でやりたいことがあるなら、そっちを優先してくれて構わな──」
マスターが言葉を止め、切れ長の目を大きく見開く。
驚きの色が浮かぶ漆黒の瞳に見つめられながら、未桜はカップいっぱいのホットスカウトチョコレートを、勢いよく飲み干した。
ちょうどいい温かさで、ほんのり甘くて、口の中に幸せな余韻を残す、特別なホットチョコレート。
もったいないくらい急いで飲んでしまったけれど、未桜のためにこのドリンクを作ってくれたマスターの思いは、十分に伝わってきた。
ごちそうさまでした、とカップを置く。
「やったぁ! スカウト成功です! 僕たち、未桜さんとまた、一緒に働けるんですねっ!」
アサくんが歓声を上げる。「ほら、どうしちゃったんですかマスター!」と黒いベストの裾を引っ張られて、マスターがようやく笑顔を見せた。
「ありがとう。オファーを受け入れてもらえて、すごく嬉しいよ」
「こちらこそ!」
堂々と答えてから、急に気恥ずかしくなり、目を逸らす。アサくんがわざとらしく、ヒューヒューと口笛を吹いた。
そのとき、ふと、あることに気がついた。
「どうした、未桜さん?」
いつの間にか、微笑んでしまっていたらしい。マスターに怪訝そうに尋ねられ、未桜は慌てて答えた。
「あ、いえ、ちょっとしたことなんです。この日本三十号店って、まさに私のお店だなぁ、と思って」
「というと?」
「30(みお)、だから。そして、30(さわ)、でもある」
指で数字を示しながら言うと、マスターとアサくんが同時に「おお」と声を上げた。
「全然気づかなかったよ。面白いね、“器”と“魂”の関係は。来世喫茶店の店主としてはベテランの域に達しつつある僕でも、まだまだ分からないことがたくさんある」
「運命、感じません?」
「うん。十九年と少し前、君に初めて会ったときから他人という感じがしなかったんだけど、これがヒントだったのかもしれないな」
未桜とマスターは、顔を見合わせて笑った。
ホットスカウトチョコレート。
それは、別れの寂しさが吹き飛ぶような、この上なく素晴らしいプレゼントだった。
「本当に、お世話になりました」
外では、すっかり夜が明けたらしい。窓から差し込む金色の朝日を受け、マスターの端整な顔は、いつもよりもずっと輝いてみえた。
「二年後に、待ってるよ」
マスターの口が動く。送り出された言葉を、未桜はしっかりと受け取った。
「はい!」
じゃあそろそろ行きましょうか──と、アサくんが手招きをする。
天使のような薄茶色の髪の少年に続いて、未桜は来世喫茶店を後にした。
全身に朝日を浴びながら、芝生に挟まれた白い小道を歩く。
その中ほどで、少年がこちらを振り向いた。
「準備は、いいですか?」
「うん……お願いします」
「……では」
小さな手が、別れを惜しむように、未桜の手首に触れる。
芝生の黄緑色と、空の青が、混じり合って揺らめいた。
白く染まった視界の端で、少年が首から下げた砂時計をひっくり返す。
またね、という鈴の鳴るような声が、未桜の耳をくすぐった。
「……未桜!」
誰かに声を呼ばれ、ゆっくりと、重いまぶたを持ち上げる。
──あっ。
久しぶりに聞く、父の声だ。