お母さんが、細かいことを気にしない性格で助かった。再びトーク画面に視線を戻し、微笑みを浮かべてメッセージに読み耽り始めた母を、未桜は懐かしさに浸りながらじっと見守った。
 お父さんに教えてあげたかった。一方的に送り続けたたくさんのメッセージを読んで、お母さんはすごく嬉しそうにしていたよ、と。
 けれど、たぶん──現世に帰ったら、この記憶は消えてしまう。
 そのことが、とても寂しかった。
「……あれ? ちょっと未桜、あなた大丈夫なの⁉」
 突然、お母さんが仰天した声を上げた。スマートフォンの画面をこちらに向け、怒ったように眉を寄せる。
「お父さんからの一番新しいメッセージを見たら、四日前に未桜が倒れて、まだ意識が戻らないって書いてあるけど。いったいどういうことなの? こんなところでアルバイトなんかしてないで、早くお父さんのところに帰ってあげなさい!」
 トーク画面には、切羽詰まったメッセージが並んでいた。
『みおが倒れどうしようみおまでいなくなったらどうしよう』
『まあ目を覚まさないお願いだからお願いだから戻ってきてくれ』
『お医者さんもゲインがわからないと言われた俺にもわからないどうすれば』
 その文面を見た途端、涙がぶわっとあふれる。
 次々と目からこぼれる水滴を拭いながら、未桜は何度も頷き、しゃくりあげた。
 ごめんなさい、家に帰りたくないなんて言ってごめんなさい──。
涙ながらに謝っていると、身体がふわりと温かいものに包まれた。
 二年も前に永遠の別れを告げたと思っていたお母さんに、力いっぱい抱きしめられる。
「大好きよ、未桜。ずっとずっと、いつまでも」
「私も……だよ……お母さん!」
 嗚咽の合間に、一生懸命思いを伝えた。久しぶりに会えたのは嬉しかったけれど、二度目のお別れの時が近づいていると思うと、ひどくつらかった。
 やがて、お母さんがゆっくりと、身体を離した。
「今日は未桜に会えて、すごく嬉しかった。お父さんにもよろしくね」
「……うん!」
「入学祝いのリップグロス、素知らぬふりして受け取るのよ。ちゃんと驚いて、喜んであげてね」
「そうする」──大丈夫。そのときにはきっと、ここでの出来事は全部忘れているから。
「またね、未桜」
「またね、お母さん!」
 まっすぐに目を見て言い、未桜はカップを手に取った。


 ほのかに温かいカフェラテの残りを、一息に飲み干す。
 未桜が生まれたときから好きだった、よく晴れた春の日の洗濯物のような匂いが、すっとどこかに消えていった。


 ソーサーにカップを置く。カウンターに座っているのは、未桜一人になっていた。
「さて! 未桜さん。現世に帰る気になりました?」
 アサくんがぴょこりとそばに跳んできて、未桜の顔を覗き込んだ。
 泣き腫らした目を見られたくなくて、「もう!」とそっぽを向く。
「メモリーブレンドと相席カフェラテの力で、お父さんへの誤解も解けて、お母さんにも会わせてもらって……こんなの、帰らないわけにはいかないよっ!」
「ね? すごいでしょう? これが、来世喫茶店、日本三十号店が誇るマスターの腕なんです。お客様方の信頼を集める、我らがマスターの底力なんです。今日は特に、出血大サービスでしたねっ!」
 アサくんは興奮を隠せない様子だった。まるで自分のことのように、誇らしげに胸を反らしている。
 美味しい賄いを作ってくれて、趣味で焼いたお菓子を惜しげもなくサービスで出して、調整が難しい特別なドリンクを難なく淹れることができて、穏やかで優しくて、控えめでありつつも包容力にあふれている、この来世喫茶店のマスター。
 そんな彼の元を離れる瞬間は、もうすぐそこだ。
 来世喫茶店にやってきた日から今までのことを、一つ一つゆっくりと、懐かしく振り返っていく。
 だって、ひとたび現世に帰ってしまったら、二度と思い出せなくなってしまうから。
ここでの記憶は、不思議な砂時計の力で、すべて消えてしまうから。
 たった四日間の、儚い恋だった──。
「──私の記憶を消す方法、見つかったんですよね?」
 意を決して、未桜はマスターに問いかけた。
 気のせいかもしれないけれど、カウンターの向こうに立っているマスターが、ふっと寂しそうに顔を翳らせる。
「そうだね。どうすればあの砂時計が未桜さんに効くようになるのか、ようやく分かったよ」
「別に、砂時計本体が故障してたわけじゃなかったですものね! 僕、あれから同じのをずっと使ってますけど、不具合は出てないですし。未桜さんのときは何がいけなかったんだろうって、ずっと考えてたんです」
 アサくんが、ズボンのポケットから例の砂時計を出した。チケット配布業務で使うため、肌身離さず持ち歩いているようだ。
 砂時計が故障していなかったということは、記憶が消去できなかったのは、未桜側の問題なのだろうか。
 深く考える間もなく、「それでは」とマスターがおごそかな声で言った。
「今から、未桜さんの記憶を消すための“手続き”をするよ。これはあくまで前準備だから、“手続き”を終えたからといって、その場でただちに記憶が消えるわけじゃない。だけど、事が済んだら速やかに未桜さんを現世に送り届け、アサくんに砂時計の力を行使してもらおうと思ってる。というわけで、用意はいいかな?」
「……はい。お願いします」
 未桜の覚悟のこもった言葉を聞き届けると、マスターは身を翻し、食器棚からグラスを一つ出した。
 そのグラスに、氷を入れ、ピッチャーから水を注ぐ。
 そして、カウンターから身を乗り出し、未桜の前に置いた。
「どうぞ。飲んでみて」
「……え?」
 わけが分からず、何の変哲もない水のグラスを見つめる。
 追加の指示があるかと思いきや、マスターはじっと黙ったまま、未桜のことを見守っていた。
「ええっ? “手続き”って、水を飲むだけですかぁ?」
 考え込む未桜の代わりに、アサくんが戸惑った声で尋ねた。マスターが「うん、そうだよ」と言葉少なに答える。
その理由や、“手続き”の方法が判明した経緯については、事細かに語るつもりがないようだった。
 けれど──その瞬間、未桜はピンときた。
 ピンときてしまった。