いつの間にか、未桜は白い丸石の敷き詰められた小道に立っていた。
左右には、丁寧(ていねい)に手入れされた芝生が広がっている。
不思議なのは、その向こうに浮かぶ景色が、常に移り変わっていることだった。
春の小川が見えたかと思えば、雨が降りしきる住宅街になり、次の瞬間には穏やかに凪(な)いだ海へと変わっている。まるで、透明のスクリーンが空中に吊られていて、映画の予告編でも投影されているかのようだ。
まっすぐ前を見る。
芝生の中央には、小ぢんまりとしたお店がぽつんと建っていた。
――あ、理想のお店。
即座に、そんなことを思う。
平屋の建物は、ガラス張りでもないし、お洒落なテラス席があるわけでもない。レンガ造りで、赤い庇(ひさし)が突き出た、昔の香りのするお店だ。入り口の前には、これまた年季の入った電飾(でんしょく)看板(かんばん)が置かれている。
バイトをしようとしていたお店とはだいぶ雰囲気が違うけれど、これはこれで素敵だ。「カフェ」よりも、「純喫茶」という言葉が近い。
「どうぞ、中へ」
笹子旭と名乗った少年が、すたすたと小道を歩いていく。喫茶店の外観に見惚れていた未桜は、慌てて彼を追いかけた。
木製のずっしりした扉を開けると、軽やかな鈴の音色がした。
現実とも夢ともつかない外の景色とは違い、中は普通の喫茶店だった。
二人掛けのテーブル席が四つ。
カウンター席も、同じく四つ。
そのカウンターの向こうに上半身を覗(のぞ)かせている、白いワイシャツと黒いベストに身を包んだ背の高い男性が、やや目を見開いてこちらを見た。
「あれ、アサくん……何かあった?」
アサくんというのが、笹子旭という少年のあだ名のようだ。
顔を見ただけで、トラブルがあったことを見抜いたらしい。特殊な神通力でも持っているのか、それともアサくんの表情があまりに分かりやすいのか。
「はじめまして。マスターの静(しず)川(かわ)です」
男性が、柔らかな声で話しかけてきた。一目見た瞬間からぼうっとして彼の顔を見つめていたことに気づき、「あっ、八重樫未桜です!」と慌てて会釈を返す。
──見目麗(うるわ)しい。
十九年近く生きてきて、この言葉がこれほどぴったり当てはまる男性を見たのは初めてのことだった。
喫茶店のマスターというから、なんとなくおじいさんを想像していたけれど、この人はずいぶんと若い。
たぶん、二十代後半だ。二十七とか八とか、そのくらい。白いワイシャツに黒いベストという組み合わせが、細身の身体によく似合っている。
彫りの深い端整(たんせい)な顔立ちは、まるで外国の俳優かモデルのようだった。けれどその切れ長の目を彩る瞳は、ふわりとした髪と同様に黒く、穏やかで不思議な光をたたえている。
息せき切ってカウンターに駆け寄ったアサくんを、マスターが首を傾げつつ見下ろした。
「僕の見立てが間違いじゃなければ……この方は、“生ける人”?」
そよ風のような声だった。一音一音がとても静かで、優しくて、耳たぶをくすぐるように通り過ぎていく。
「そうなんです! すみません、僕、とんでもない間違いを……二年も早くチケットをお見せしてしまって、砂時計で記憶を消そうとしたんですけど、どうしてだか時が戻らなくって……」
つっかえつっかえ、アサくんが状況を説明する。未桜がそのせいでバイトの面接を受けられなかったことも、ここでの仕事を見学希望であることも、余すことなく伝えてくれた。
「記憶を消せないなんて、聞いたことがないけどな。どうしたんだろうね」
マスターが顎に親指を当てた。アサくんから砂時計を受け取り、「壊れているということもなさそうだし」と首を傾げる。
ただ、表面では怪訝(けげん)そうにしつつも、マスターの口調には状況を面白がるような響きが含まれていた。落ち着いた様子で、掌の上で砂時計を転がしている。
一方のアサくんは、自分のミスにしょげ返っているようだった。肩を落とし、雨に濡れそぼった小動物のようにマスターを見上げる。
「あのう……本部に問い合わせてみたほうがいいでしょうか? 僕のミスについても、報告書を提出しないとですよね」
「いや、いったん様子を見ようか。“向かう人”の希望があったわけでもないのに“生ける人”を店に連れてきたと知られたら、もっと大きな問題になるかもしれないから。この件はいったん、僕が預かるよ」
「す、すみません! 独断(どくだん)で連れてきてしまって……マスターにこのことを隠蔽させるなんて、事態がいっそう大事(おおごと)に……ああ僕はなんてダメなんだ!」
アサくんが小さな両手で顔を覆(おお)う。ピシっとしたスーツ姿で、十一歳という年齢が嘘のようにしっかりして見えたのに、こういう仕草は妙に子どもらしい。
左右には、丁寧(ていねい)に手入れされた芝生が広がっている。
不思議なのは、その向こうに浮かぶ景色が、常に移り変わっていることだった。
春の小川が見えたかと思えば、雨が降りしきる住宅街になり、次の瞬間には穏やかに凪(な)いだ海へと変わっている。まるで、透明のスクリーンが空中に吊られていて、映画の予告編でも投影されているかのようだ。
まっすぐ前を見る。
芝生の中央には、小ぢんまりとしたお店がぽつんと建っていた。
――あ、理想のお店。
即座に、そんなことを思う。
平屋の建物は、ガラス張りでもないし、お洒落なテラス席があるわけでもない。レンガ造りで、赤い庇(ひさし)が突き出た、昔の香りのするお店だ。入り口の前には、これまた年季の入った電飾(でんしょく)看板(かんばん)が置かれている。
バイトをしようとしていたお店とはだいぶ雰囲気が違うけれど、これはこれで素敵だ。「カフェ」よりも、「純喫茶」という言葉が近い。
「どうぞ、中へ」
笹子旭と名乗った少年が、すたすたと小道を歩いていく。喫茶店の外観に見惚れていた未桜は、慌てて彼を追いかけた。
木製のずっしりした扉を開けると、軽やかな鈴の音色がした。
現実とも夢ともつかない外の景色とは違い、中は普通の喫茶店だった。
二人掛けのテーブル席が四つ。
カウンター席も、同じく四つ。
そのカウンターの向こうに上半身を覗(のぞ)かせている、白いワイシャツと黒いベストに身を包んだ背の高い男性が、やや目を見開いてこちらを見た。
「あれ、アサくん……何かあった?」
アサくんというのが、笹子旭という少年のあだ名のようだ。
顔を見ただけで、トラブルがあったことを見抜いたらしい。特殊な神通力でも持っているのか、それともアサくんの表情があまりに分かりやすいのか。
「はじめまして。マスターの静(しず)川(かわ)です」
男性が、柔らかな声で話しかけてきた。一目見た瞬間からぼうっとして彼の顔を見つめていたことに気づき、「あっ、八重樫未桜です!」と慌てて会釈を返す。
──見目麗(うるわ)しい。
十九年近く生きてきて、この言葉がこれほどぴったり当てはまる男性を見たのは初めてのことだった。
喫茶店のマスターというから、なんとなくおじいさんを想像していたけれど、この人はずいぶんと若い。
たぶん、二十代後半だ。二十七とか八とか、そのくらい。白いワイシャツに黒いベストという組み合わせが、細身の身体によく似合っている。
彫りの深い端整(たんせい)な顔立ちは、まるで外国の俳優かモデルのようだった。けれどその切れ長の目を彩る瞳は、ふわりとした髪と同様に黒く、穏やかで不思議な光をたたえている。
息せき切ってカウンターに駆け寄ったアサくんを、マスターが首を傾げつつ見下ろした。
「僕の見立てが間違いじゃなければ……この方は、“生ける人”?」
そよ風のような声だった。一音一音がとても静かで、優しくて、耳たぶをくすぐるように通り過ぎていく。
「そうなんです! すみません、僕、とんでもない間違いを……二年も早くチケットをお見せしてしまって、砂時計で記憶を消そうとしたんですけど、どうしてだか時が戻らなくって……」
つっかえつっかえ、アサくんが状況を説明する。未桜がそのせいでバイトの面接を受けられなかったことも、ここでの仕事を見学希望であることも、余すことなく伝えてくれた。
「記憶を消せないなんて、聞いたことがないけどな。どうしたんだろうね」
マスターが顎に親指を当てた。アサくんから砂時計を受け取り、「壊れているということもなさそうだし」と首を傾げる。
ただ、表面では怪訝(けげん)そうにしつつも、マスターの口調には状況を面白がるような響きが含まれていた。落ち着いた様子で、掌の上で砂時計を転がしている。
一方のアサくんは、自分のミスにしょげ返っているようだった。肩を落とし、雨に濡れそぼった小動物のようにマスターを見上げる。
「あのう……本部に問い合わせてみたほうがいいでしょうか? 僕のミスについても、報告書を提出しないとですよね」
「いや、いったん様子を見ようか。“向かう人”の希望があったわけでもないのに“生ける人”を店に連れてきたと知られたら、もっと大きな問題になるかもしれないから。この件はいったん、僕が預かるよ」
「す、すみません! 独断(どくだん)で連れてきてしまって……マスターにこのことを隠蔽させるなんて、事態がいっそう大事(おおごと)に……ああ僕はなんてダメなんだ!」
アサくんが小さな両手で顔を覆(おお)う。ピシっとしたスーツ姿で、十一歳という年齢が嘘のようにしっかりして見えたのに、こういう仕草は妙に子どもらしい。