記憶の中で、未桜はデパートの化粧品売り場を歩いていた。
 天井の白い光が、ピカピカとした白い床に跳ね返り、未桜の背筋をしゃんと伸ばさせる。
 長年、憧れていた場所だった。ずらりと美しく陳列(ちんれつ)された口紅。色とりどりのアイシャドウ。鏡を挟んで笑い合っている女性販売員とお客さん。フロアに充満する香水の匂い。
子どもが立ち入るのは気が引けて、いつも小走りで通り過ぎていたけれど、今日は違う。明日、四月一日からはもう大学生だ。しかも都内の、二十三区内の。だから、テレビCMで一目惚れしたリップグロスを、ちょっと背伸びして買いにきた。
もしお母さんが生きていたら、「入学祝いね。高いから、お父さんには内緒よ」なんてウインクをして、未桜を連れてきてくれたのかもしれない。
だけど、それはもう叶わない。もうあれから二年も経っているから、涙が止まらなくなるほど悲しくなることもないし、未桜だってある程度は割り切っている。お父さんにリップグロスのことを話しても、「唇に赤い色がつけばいいんだろ? ドラッグストアで売ってる安いのじゃダメなのか?」なんて無神経なことを言われそうだから、今日はお年玉貯金を崩すことに決めていた。
丸(まる)の内(うち)や汐留(しおどめ)のお洒落な高層ビルとか、アパレル系の企業に勤めているような父親だったら、こういうときも頼りになったのかもしれない。
でも、未桜のお父さんの仕事は、住宅の建築工事の現場監督。年がら年中真っ黒に日焼けしていて、毛玉だらけのセーターや着古したTシャツばかり身に着けている父親に、化粧品の相談なんてできるはずがなかった。
好きな女優さんが出ている、光まばゆいCMの映像を思い浮かべる。斜体の文字で書かれたブランドのロゴはどこにあるだろうかと、未桜はきょろきょろと辺りを見回しながら化粧品売り場の通路を歩いた。
フロアはだだっ広くて、なかなか目的の場所が見つからない。
未桜がはっとして足を止めたのは、仲良さそうに会話をしている男女が横の通路から出てきた瞬間だった。
「あのグロス、実は気になってたんですよぉ。明日からさっそく使おうっと」
「それはよかった。そう言ってもらえて、俺も嬉しいよ」
 その声に、背筋がすっと冷えた。
 とっさに柱の陰に飛び込む。聞き間違いであることを願いながら、少しだけ首を伸ばして、角を曲がって去っていこうとしている男の姿を確認した。
 あ、やっぱり違った──と、未桜は一瞬安堵(あんど)した。中年の男性が、紺色のジャケットにベージュのパンツという、スタイリッシュな服装をしていたからだ。けれど、女の次の台詞を聞いて、未桜はその場で硬直した。
「ヤエさん、大丈夫ですか? 右手、怪我してるのに。それ、やっぱり私が持ちますよぉ」
「いいよいいよ。もうだいぶよくなってきてるから。まだ包帯は取れないけど」
「早く治るといいですね。というわけで荷物はこちらへ」
「ああ、いいって! ……ったく、カオリさんは強引だなぁ」
 三十代前半くらいの綺麗な女性が、よく日焼けした中年男の腕に絡みつくようにして、小さな水色の紙袋を奪い取っている。
 男が笑いながら伸ばした右手の指先には、白い包帯が幾重(いくえ)にも巻かれていた。
 二週間前に、現場の職人さんたちを手伝ってトラックの荷台から木材を運ぼうとした際、崩れてきた他の木材との間に挟んで骨折してしまったという、右手の人差し指──。
 唇の間に覗く白い歯。フロアに響く、豪快な笑い声。
柄にもなくめかし込んだあの人は、間違いなく、未桜の父だった。
 ヤエさん。
カオリさん。
 苗字を縮めた愛称と下の名前で呼び合い、仲睦まじく紙袋を取り合っている二人の関係は、容易に想像がついた。
 未桜はとっさに身を翻した。
 気が動転して、泣きそうになりながら、足音を忍ばせて走り去る。
 買い物の用事のことは、もはやすっかり忘れていた。そのままデパートの正面玄関を飛び出し、駅への道をひたすら駆けた。


女性がつけていたリップグロスの真っ赤な色が、何度も何度も、目の前でちかちかと光る。
 未桜はメモリーブレンドをもう一口、ごくりと飲んだ。