「わっ、ごめんなさい!」
未桜はマスターの肩から手を離し、慌てて飛び退いた。
その瞬間、見慣れた店内の光景が目の前に戻ってくる。やや遅れて、マスターが驚いた顔でこちらを振り返った。
目の前にいるマスターも、もちろん未桜も、泣いてはいない。頬に涙が伝ったと感じたのは、頭の中に流れ込んできた映像の中での出来事だったようだ。
「も、も、もしかして……マグカップに入ってたの、メモリーブレンドだったんですか⁉」
「あっ……うん。こちらこそ、びっくりさせてごめんね」
マスターも、珍しく動揺した顔をしていた。
長い睫毛が、せわしなく上下に振れる。
「確かにこれはメモリーブレンドの一種だけど……効能は限定的でね。来世への影響は一切ないんだ。だから、生まれ変わるつもりで飲んでいたわけじゃないよ」
それって、つまり──。
来世に影響を及ぼすことなく、過去の思い出の再体験だけをすることができる、ということだろうか。
だとすれば、さっき未桜がマスターの肩に触れている間に覗き見てしまったのは、彼にとっての“最も大切な思い出”ということになる。
頭を金槌で殴られたような衝撃を受け、未桜はぎゅっと目をつむった。
二日前のアサくんの言葉が、耳に蘇る。
──マスターは、この先二度と恋をしないって、決めてるみたいです。
──この喫茶店を訪れたお客様の中に、マスターと懇意になった同い年の女性がいたそうなんです。お互いにほぼ一目惚れで、カウンター越しに話すうちに恋をして。
──きっとマスターは、今でもそのお相手のことが忘れられないんでしょうね。時々、夜になるとお店の外に出て、寂しそうに星空を見上げていることがありますよ。
やっぱり、そうだ。
たった今、未桜が記憶の中で出会ってしまった女の人こそが、マスターがずいぶん昔に思いを寄せた、彼の“最後の恋人”なのだろう。
知的で、大人の魅力にあふれていて、崖に咲く一輪の花のような気高さを感じさせる女性──。
「……そんなの、勝ち目、ないよ」
「ん? どうした、未桜さん?」
マスターに問いかけられて初めて、心の声が口からこぼれ出ていたことに気づく。
すぐには答えられなかった。
マスターがかつて恋した女性に今も未練を残していると知って、胸が嫉妬心とやりきれなさでいっぱいになっている。少しは脈があるのかもしれないと勝手に盛り上がっていた自分が、急にバカらしく思えてくる。
耐えきれなくなり、未桜は床に視線を向けたまま言い放った。
「休憩の邪魔をして、すみませんでした! 私、バックヤードに行きますねっ!」
「あっ、ちょっと!」
速足で立ち去ろうとした瞬間、マスターが椅子から立ち上がり、未桜の手をつかんだ。
振り返り、びっくりして見つめ合う。
すぐに離してくれるかと思ったのに、マスターはいつまでも、こちらに目を向けたまま、未桜の手を握り続けていた。
掌が熱い。マスターの体温なのか、未桜が舞い上がっているだけなのか、その両方なのか。
血管が破裂してしまいそうなほど、心臓の鼓動が速くなる。
「あ、あの……マスター?」
ようやく未桜が言葉を絞り出すと、マスターは我に返ったような顔をして、「ああ」と両手を身体の後ろに回した。
マスターの滑らかな頬は、赤みを帯びているように見えた。──それが未桜の都合のいい勘違いでなければ、心なしか。
余計に、分からなくなる。
憧れの存在である彼の本心が、まったく。
「……邪魔だなんてとんでもない。今はお客さんがいないんだから、未桜さんもここで休憩してくれて構わないんだよ。……あ、よかったら、飲み物を持ってこようか。オレンジジュースでもいい?」
「あの、じゃあ水を……」
「あ、ミネラルウォーターは冷えてなかったかもしれない。オレンジより、パイナップルジュースのほうが好みかな? もちろん、どちらも変な効能はないから安心して」
取り繕うように言い、カウンター内へと大股で歩いていく。
そんなマスターの後ろ姿を、未桜は胸の痛みをこらえながら見送った。
今、窓の外には、青々とした芝生が広がっている。
それは実際の光景か──それとも、彼の記憶の中のワンシーン、なのだろうか。
未桜はマスターの肩から手を離し、慌てて飛び退いた。
その瞬間、見慣れた店内の光景が目の前に戻ってくる。やや遅れて、マスターが驚いた顔でこちらを振り返った。
目の前にいるマスターも、もちろん未桜も、泣いてはいない。頬に涙が伝ったと感じたのは、頭の中に流れ込んできた映像の中での出来事だったようだ。
「も、も、もしかして……マグカップに入ってたの、メモリーブレンドだったんですか⁉」
「あっ……うん。こちらこそ、びっくりさせてごめんね」
マスターも、珍しく動揺した顔をしていた。
長い睫毛が、せわしなく上下に振れる。
「確かにこれはメモリーブレンドの一種だけど……効能は限定的でね。来世への影響は一切ないんだ。だから、生まれ変わるつもりで飲んでいたわけじゃないよ」
それって、つまり──。
来世に影響を及ぼすことなく、過去の思い出の再体験だけをすることができる、ということだろうか。
だとすれば、さっき未桜がマスターの肩に触れている間に覗き見てしまったのは、彼にとっての“最も大切な思い出”ということになる。
頭を金槌で殴られたような衝撃を受け、未桜はぎゅっと目をつむった。
二日前のアサくんの言葉が、耳に蘇る。
──マスターは、この先二度と恋をしないって、決めてるみたいです。
──この喫茶店を訪れたお客様の中に、マスターと懇意になった同い年の女性がいたそうなんです。お互いにほぼ一目惚れで、カウンター越しに話すうちに恋をして。
──きっとマスターは、今でもそのお相手のことが忘れられないんでしょうね。時々、夜になるとお店の外に出て、寂しそうに星空を見上げていることがありますよ。
やっぱり、そうだ。
たった今、未桜が記憶の中で出会ってしまった女の人こそが、マスターがずいぶん昔に思いを寄せた、彼の“最後の恋人”なのだろう。
知的で、大人の魅力にあふれていて、崖に咲く一輪の花のような気高さを感じさせる女性──。
「……そんなの、勝ち目、ないよ」
「ん? どうした、未桜さん?」
マスターに問いかけられて初めて、心の声が口からこぼれ出ていたことに気づく。
すぐには答えられなかった。
マスターがかつて恋した女性に今も未練を残していると知って、胸が嫉妬心とやりきれなさでいっぱいになっている。少しは脈があるのかもしれないと勝手に盛り上がっていた自分が、急にバカらしく思えてくる。
耐えきれなくなり、未桜は床に視線を向けたまま言い放った。
「休憩の邪魔をして、すみませんでした! 私、バックヤードに行きますねっ!」
「あっ、ちょっと!」
速足で立ち去ろうとした瞬間、マスターが椅子から立ち上がり、未桜の手をつかんだ。
振り返り、びっくりして見つめ合う。
すぐに離してくれるかと思ったのに、マスターはいつまでも、こちらに目を向けたまま、未桜の手を握り続けていた。
掌が熱い。マスターの体温なのか、未桜が舞い上がっているだけなのか、その両方なのか。
血管が破裂してしまいそうなほど、心臓の鼓動が速くなる。
「あ、あの……マスター?」
ようやく未桜が言葉を絞り出すと、マスターは我に返ったような顔をして、「ああ」と両手を身体の後ろに回した。
マスターの滑らかな頬は、赤みを帯びているように見えた。──それが未桜の都合のいい勘違いでなければ、心なしか。
余計に、分からなくなる。
憧れの存在である彼の本心が、まったく。
「……邪魔だなんてとんでもない。今はお客さんがいないんだから、未桜さんもここで休憩してくれて構わないんだよ。……あ、よかったら、飲み物を持ってこようか。オレンジジュースでもいい?」
「あの、じゃあ水を……」
「あ、ミネラルウォーターは冷えてなかったかもしれない。オレンジより、パイナップルジュースのほうが好みかな? もちろん、どちらも変な効能はないから安心して」
取り繕うように言い、カウンター内へと大股で歩いていく。
そんなマスターの後ろ姿を、未桜は胸の痛みをこらえながら見送った。
今、窓の外には、青々とした芝生が広がっている。
それは実際の光景か──それとも、彼の記憶の中のワンシーン、なのだろうか。