カウンター席に座る加奈子は、すっかり待ちくたびれた顔をしていた。
「お紅茶はまだいただけないのかしら? 喉が渇いてしまいそうよ」
「失礼いたしました。どのような茶葉の配合にすべきか、少々迷っておりまして」
マスターが丁重に頭を下げた。
アサくんが薄い茶色の瞳をくるくると回し、未桜のことを見た。その意外そうな表情を見る限り、マスターがカウンセリングティーの淹れ方で迷うのは、普段めったにないことのようだ。
未桜がようやく夢から醒め、なんとか平常心を取り戻した頃、マスターがゆっくりと加奈子に問いかけた。
「さて──突然ですが、町井さま。一つ、お尋ねしてもいいでしょうか」
「ええ。何?」
「以前、こんな話を聞いたことがあります。あるオフィスビルのフロアで、火災が起きました。そのフロアには、目が見えない人と、耳が聞こえない人がいました。一人は避難に成功し、もう一人は逃げ遅れてしまいました。助かったのはどちらだと思いますか?」
アサくんが仰け反り、「ええっ、マスター、いきなりクイズですかぁ?」と目を白黒させる。マスターの意図が分からず、未桜も「それって……」と首をひねった。
「そりゃあ、耳が聞こえない人でしょう」と加奈子が眉を寄せながら答える。「どこから火の手が上がったか、見えるわけだし」
「僕もそう思います!」
「私もっ!」
アサくんと未桜も、同感の意を示す。
しかしマスターは目を伏せ、「いいえ」と首を左右に振った。
「助かったのは、目が見えない人だったのです」
「えっ⁉」「なんで⁉」
「健(けん)常者(じょうしゃ)にとってはなかなか想像しにくいことですが、実は火事現場において、『見える』というのはそれほど意味がないんです。どちらにしろ、フロア中に煙が充満して、視界が閉ざされますから。この場合、『こっちへ逃げろ!』という同僚の声を聞いて避難できたのは、目が見えない人のほう。耳が聞こえない人は逃げ遅れ、不幸にも亡くなってしまいました」
「へえ……そうなの」加奈子が首を傾げて呟く。「でも、それとこれと、何の関係が──」
「メニエール病(、、、、、、)、と(、)いう(、、)病気(、、)を(、)ご存知(、、、)です(、、)か(、)?」
マスターが静かに言った。
「似た病気に、突発性(とっぱつせい)難聴(なんちょう)があります。片耳の難聴の発作が一回きり起き、その状態が継続する突発性難聴に対し、何度も発作を繰り返すのがメニエール病です。症状は、激しいめまい、片耳の難聴、耳鳴り、吐き気や腹痛など。一回の発作は十分から数時間程度続きます。そして、発作を繰り返すごとに、難聴や耳鳴りが徐々に改善しにくくなり、状態が持続するようになります」
「だから、それが──」と言いかけ、加奈子が目を見開く。
呆然とする加奈子に、マスターが一言一言を噛み締めるように語りかけた。
「小山内さんは、こう言っていたんですよね。『三日くらい徹夜しても、アドレナリンが出るから意外と働ける。めまい(、、、)や(、)耳(、)鳴り(、、)が(、)する(、、)くらい(、、、)で(、)』と」
「でも……待ってよ……あれは、砂羽が働きすぎだったから……」
「メニエール病の発症のきっかけは、精神的ストレスや肉体の疲労、睡眠不足と言われています」
マスターの言葉を聞き、加奈子が口元を押さえた。「じゃあ、砂羽は、あのとき……」と声を震わせる。
「火事が起きたとき、小山内さんは『やめて! 来ないで!』『嫌だ! あっちに行って!』と叫んでいたそうですね。おそらくですが、あのとき彼女は、まさにメニエール病の発作に襲われていたのです。緊急事態にもかかわらず難聴と耳鳴りに苛まれ、激しいめまいのせいで平衡(へいこう)感覚も失い、パニックに陥(おちい)っていたのでしょう。小山内さんは必死に、発作(、、)と(、)いう(、、)現象(、、)そのもの(、、、、)に(、)対し(、、)、『来ないで!』『あっちへ行って!』と叫び続けた。つまり、周り(、、)の(、)音(、)は(、)、ほとんど(、、、、)聞こえて(、、、、)いなかった(、、、、、)の(、)です(、、)。町井さまの呼びかけを拒絶したわけではなかったのですよ」
「……なんてこと」
加奈子が両手で顔を覆った。
同時に、ふとあることに気づき、未桜は「あっ」と声を上げた。
「そっか、難聴の発作がいつ起きるかも分からないから……だから砂羽さんは、ストリートライブをやろうって持ちかけられたとき、突然怒ったんですね!」
「そういうことだったんだろうと思う」と、マスターが顎を撫でる。「さらに言えば、小山内さんの難聴の症状は、すでにだいぶ進行していたんじゃないかな。テーブル越しに会話をするくらいなら異変を気取られずにできるけれど、音楽の演奏は難しいくらいに。バイオリニストは、耳が命だからね」
「ということは、町井さまとの音楽活動を何年か前から断っていたのは、仕事が忙しかったからじゃなくて、病気の──」
未桜が言いかけた台詞は、加奈子の激しい嗚咽(おえつ)に遮られた。
「もう、ひどいわ。ひどすぎる! そのことを、私に教えてくれないなんて。もし病気のことを知っていれば、音楽をやろうなんて言わなかったのに。ドアを蹴破ってでも助けに入ったのに。ううん、その前に、あの子を追い詰めた会社を、無理にでも休ませたのに!」
ただね──、と加奈子が泣きながら続ける。
「今、久しぶりに思い出したわ。砂羽はそういう子なのよ。いつも明るくて、強くて、前向きで、人に弱みを見せるのが苦手なの。……ああ、でも、だからこそ、私が気づいてあげなきゃいけなかったのかしら。耳が聞こえづらくなっている砂羽を音楽活動に誘うなんて……私ったら……なんて無神経なことを!」
「いえいえ町井さまっ、そんな──」
「そんなことは決してありませんよ、町井さま。ご自分を責めないでください」
マスターが未桜の言葉を遮り、力強く言い切った。
そうだ、自分の出る幕ではなかったと、未桜は慌てて口をつぐむ。
「世の中には、いろいろな人がいます。親しい相手にはいくらでも心の内をさらけ出したくなる人もいれば、相手のことが好きであればあるほど、絶対に自分の弱いところを見せたくないと考える人もいる。小山内さんは、後者だったのでしょう。古くからの友人である町井さまの前では、病気にかかる前の、“いつもの自分”でいたかったのだと思います。ですから、気に病む必要はないのですよ。町井さまが病気のことを知らなかったというのは、言ってみれば、彼女の思惑どおりに事が進んだ証拠なのですから」
マスターがにこりと微笑み、「──と、僕は信じています」と付け加えた。
「大事なのは、町井さまは決して、小山内さんに嫌われていたわけではなかったということです。彼女の死は、火事や発作といった不運が重なった結果でした。……きっと、無事に翌朝を迎えられていたら、彼女のほうから仲直りを言い出すつもりだったと思いますよ。そうでなければ、町井さまが小山内さんの疲れを癒そうと用意したアロマキャンドルを、わざわざ寝る前に自分の手でつけるはずがありませんから」
「……砂羽ぁ!」
加奈子が叫び、カウンターに突っ伏す。アサくんがそそくさと追加のおしぼりを持って駆け寄ると、加奈子はなりふり構わずそれを奪い取り、赤くなった目頭に当てた。
しばらくの間、店内には、加奈子のすすり泣きだけが響いていた。
長年心の底に貼りついていた鈍(にび)色(いろ)のシミを、涙が洗い流したようだった。ようやく顔を上げたとき、加奈子はよく晴れた夏の早朝のように、さっぱりとした表情をしていた。
「ありがとう、マスター。茶葉をブレンドしていただく前に──一つ、前言撤回してもいいかしら」
「はい。何ですか?」
「さっき、『来世では、とにかく平穏に生きたい』って言ったけど、やっぱりやめておくわ。砂羽と一緒に駅前でストリートライブをして、たくさんのお客さんを集めた経験は、とても非日常的で、華々しいものだったから」
懐かしそうに目を細め、「あの思い出を否定するような来世にするわけにはいかないわ」と、決意のこもった口調で言う。
「私の希望はそれだけ。あとはマスターの腕を信じるわ。……あ、強いて言うなら、お金はそんなに要らないわね。あれで私は失敗したから」
「かしこまりました。お任せいただきありがとうございます」
少々お待ちくださいね、とマスターは言い置き、いろいろな種類の茶葉が入った瓶が並べられている棚に向かった。
「ベースはさっぱりと、爽快に……かつ、ちょっとした刺激を。クローブ、シナモン、ペッパー、カルダモン……さて」
コーヒー豆を選ぶときと同じように、彼の手つきに躊躇(ちゅうちょ)はなかった。
次々と茶葉やスパイスが入った瓶を開け、ごく少量ずつ、手元の白い器に集めていく。
ブレンドした茶葉をティーポットに入れ、高めの位置からお湯を注ぐ。
透明なガラス容器の中で、茶葉が舞い、踊る。
回転するお湯が、みるみるうちに色づいていく。
「さあ、できあがり。うん……いい香りだ」
そしてマスターは、ティーポットとカップを自らお盆に載せ、町井加奈子のもとへと運んでいった。
「お待たせいたしました。町井さまのためにブレンドさせていただいた、オリジナルのフレーバードティーです。スリランカ産の紅茶・ディンブラをベースに、数種類の茶葉やスパイスをミックスしました。口当たりはマイルドでありながら強い香りを持ち、爽やかさと渋みが両立する味わいとなっております」
「あら、素敵ねえ。それで、これを飲むと、どんな来世を迎えられるの?」
「重視した要素は、『健康』と『人間関係』です。今回は四十七歳でご逝去(せいきょ)となりましたが、来世ではもっと長生きできますように。また、音楽仲間の小山内砂羽さんや、最期まで見守り続けてくれた優しい旦那さんのような、町井さまが深く心を通わせあえる相手に、来世でも出会えますように。そんな願いを込めました」
「スパイスは、さっきの私の希望を反映させるために?」
「そうです。ただ平穏なだけではなく、刺激的な出来事がたびたび起こる人生を、ぜひお楽しみいただければと」
ふふ、と加奈子が笑った。
完璧ね──と、吐息とともに、感じ入ったような言葉が漏れる。
「今から来世が楽しみだわ。いっそのこと、今回の倍くらい長く生きたいわねえ。あと、次は専業主婦じゃなくて、砂羽みたいなカッコいいキャリアウーマンになれたら嬉しいわ。ただし、ホワイト企業でね」
「素敵な構想ですね。あと三十秒ほど蒸らしてからお召し上がりいただければ、町井さまのご希望に最も近い形になるかと思います。ミルクともよく合いますので、お好みでどうぞ」
「ありがとう。そのとおりにするわ」
加奈子の口調には、マスターへの信頼と満足感がにじみ出ていた。
きっかり三十秒後に、加奈子はティーポットから紅茶を注ぎ、たっぷりとミルクを入れて、フレーバードティーを飲み始めた。
マスター特製の紅茶を味わい尽くした加奈子が、入り口横の棚からクッキーの袋をつまみ上げ、ゆったりとした歩調でお店を出ていく。
「ありがとうございました!」
マスター、アサくん、未桜の声が、一つに重なった。
扉が閉まる。
その瞬間、未桜は確かに聞いた。
空高く昇っていく、バイオリンとピアノの、軽やかな音色を。
昼下がりの太陽が、美しい黄緑色の芝生を柔らかく照らしている。
白い石が敷き詰められた小道の真ん中で、黄色いチケットの束を手にしたアサくんが、薄茶色の髪を風になびかせながら振り向いた。
「よーし、じゃ、今のうちに行ってきちゃいますね! 混雑時間帯までには必ず帰ってきますので、それまでは一人で接客、よろしくお願いします」
「アサくんは忙しいねぇ。接客とチケット配りと、両方やらなきゃいけなくて」
陽光の眩しさに目を細めつつ、「私も一緒に行こうか?」と申し出る。すると、アサくんが「あ、もしかして」とくるりと黒目を回した。
「未桜さん、そろそろ現世が恋しくなっちゃいました?」
「いやいやそんなわけないじゃん」
「……即答すぎて、逆に怪しいですよ。いったい現世で何があったんですか?」
「別に何も。アサくんが勘繰(かんぐ)りすぎてるだけじゃない?」
「もう! 未桜さんって、意外と秘密主義だなぁ。せっかく仲良くなったんですから、こっそり打ち明けてくれたっていいのにぃ」
アサくんがもどかしそうに腰を振る。そんな愛らしい少年に向かって、未桜は「その話はおしまい!」と勢いよく人差し指を突きつけた。
「で? どうするの? チケット配り、もし大変なら私も手伝うけど?」
「ああ、いえ、それは大丈夫です! 店員登録されていない“生ける人”を堂々と連れ歩いていると、本部に見つかって面倒なことになるかもしれないですし……あと、喫茶店での接客以上に特殊な業務なので、一から教えるとなると時間がかかりますし、ミスも許されないですし……」
「間違えて私に二年も早く余命宣告したアサくんよりは、上手くやれると思うけどなぁ」
未桜が冗談めかして呟くと、それは心外だと言わんばかりに、アサくんが色素の薄い眉を吊り上げた。
「あっ、あれはですねっ! 本部から送られてきたリストを日付順に並べ替えて印刷した際に、なぜか一つだけ二年後のデータが交じってしまって……通常では絶対にありえないミスというか、僕のせいじゃないというか……ぱっ、パソコンの不具合なんですっ!」
「はいはい、言い訳は分かったからいってらっしゃーい」
アサくんの必死の弁解を受け流し、ひらひらと手を振る。彼は不満そうに唇を突き出しながらも、腕時計を確認し、せかせかと小道を走っていった。
その小さな後ろ姿が、ぽん、と途中で魔法のように消えるのを見届けてから、未桜は回れ右をした。
喫茶店の入り口の扉は、開け放してあった。
店内に一歩足を踏み入れようとして、ふと立ち止まる。
中では、マスターが一人、中央のテーブル席に腰かけていた。
片手に店員用のマグカップを持っているのを見るに、束の間の休憩を取っているようだ。未桜が外から帰ってきたのにも気づかない様子で、こちらに背を向けて、ぼんやりと宙を見つめている。
──どうしたんだろう?
未桜は入り口の扉に手をかけたまま、黒いベストに包まれたマスターの背中を眺めた。
ふと、町井加奈子の来店中に起こった、控え室での出来事を思い出す。
未桜の頭をぽんぽんと優しく叩く、彼の大きな手。
そして、未桜の身体をすっぽりと包み込んだ、男の人らしい硬い腕と、広くて分厚い胸──。
考えた途端、頬がかっと熱くなる。
あれはいったいどういうことだったのだろう。
手作りケーキでバースデーサプライズをしてくれたことといい、控え室での思わせぶりな態度といい、マスターが急に示し始めた親しげな行為の意味を、そのまま素直に受け取っていいのだろうか。
──私の思いを知ってて……応えてくれて……る?
十九歳になったばかりの未桜と、大人の色気を漂わせている二十代後半のマスター。無謀な片想いかと思っていたけれど、案外、向こうも同じ気持ちでいてくれたのかもしれない。
自然とにやけそうになるのを、未桜は必死にこらえた。
足音を忍ばせ、そばに近寄る。
そして、無防備な広い背中に、そっと手を伸ばした。
「マスター──」
彼の温もりが指先に伝わりかけた、その瞬間だった。
未桜の頭の中に、突如として、色鮮やかな映像が流れ込んだ。
先ほどアサくんと別れたばかりの、喫茶店の目の前にある、青々とした芝生に挟まれた白い小道。
その中央に、綺麗な女の人が立っている。
マスターと同い年くらい、だろうか。艶のあるセミロングの黒髪が印象的な、凛とした佇まいの女性だ。
彼女がこちらに向かって、小さく手を振った。もう一方の手には、お土産のクッキーの袋が握られている。
「静川さん──いえ、孝之(たかゆき)さん」
彼女が名残惜しそうに微笑んだ。
「いろいろありがとう。あなたのことは、ずっと忘れないわ」
白いワンピースを着た彼女の後ろ姿が、徐々に遠くなっていく。
僕もだよ──と、自分の口が勝手に動いた。
両の頬を、熱い涙が伝う。
「わっ、ごめんなさい!」
未桜はマスターの肩から手を離し、慌てて飛び退いた。
その瞬間、見慣れた店内の光景が目の前に戻ってくる。やや遅れて、マスターが驚いた顔でこちらを振り返った。
目の前にいるマスターも、もちろん未桜も、泣いてはいない。頬に涙が伝ったと感じたのは、頭の中に流れ込んできた映像の中での出来事だったようだ。
「も、も、もしかして……マグカップに入ってたの、メモリーブレンドだったんですか⁉」
「あっ……うん。こちらこそ、びっくりさせてごめんね」
マスターも、珍しく動揺した顔をしていた。
長い睫毛が、せわしなく上下に振れる。
「確かにこれはメモリーブレンドの一種だけど……効能は限定的でね。来世への影響は一切ないんだ。だから、生まれ変わるつもりで飲んでいたわけじゃないよ」
それって、つまり──。
来世に影響を及ぼすことなく、過去の思い出の再体験だけをすることができる、ということだろうか。
だとすれば、さっき未桜がマスターの肩に触れている間に覗き見てしまったのは、彼にとっての“最も大切な思い出”ということになる。
頭を金槌で殴られたような衝撃を受け、未桜はぎゅっと目をつむった。
二日前のアサくんの言葉が、耳に蘇る。
──マスターは、この先二度と恋をしないって、決めてるみたいです。
──この喫茶店を訪れたお客様の中に、マスターと懇意になった同い年の女性がいたそうなんです。お互いにほぼ一目惚れで、カウンター越しに話すうちに恋をして。
──きっとマスターは、今でもそのお相手のことが忘れられないんでしょうね。時々、夜になるとお店の外に出て、寂しそうに星空を見上げていることがありますよ。
やっぱり、そうだ。
たった今、未桜が記憶の中で出会ってしまった女の人こそが、マスターがずいぶん昔に思いを寄せた、彼の“最後の恋人”なのだろう。
知的で、大人の魅力にあふれていて、崖に咲く一輪の花のような気高さを感じさせる女性──。
「……そんなの、勝ち目、ないよ」
「ん? どうした、未桜さん?」
マスターに問いかけられて初めて、心の声が口からこぼれ出ていたことに気づく。
すぐには答えられなかった。
マスターがかつて恋した女性に今も未練を残していると知って、胸が嫉妬心とやりきれなさでいっぱいになっている。少しは脈があるのかもしれないと勝手に盛り上がっていた自分が、急にバカらしく思えてくる。
耐えきれなくなり、未桜は床に視線を向けたまま言い放った。
「休憩の邪魔をして、すみませんでした! 私、バックヤードに行きますねっ!」
「あっ、ちょっと!」
速足で立ち去ろうとした瞬間、マスターが椅子から立ち上がり、未桜の手をつかんだ。
振り返り、びっくりして見つめ合う。
すぐに離してくれるかと思ったのに、マスターはいつまでも、こちらに目を向けたまま、未桜の手を握り続けていた。
掌が熱い。マスターの体温なのか、未桜が舞い上がっているだけなのか、その両方なのか。
血管が破裂してしまいそうなほど、心臓の鼓動が速くなる。
「あ、あの……マスター?」
ようやく未桜が言葉を絞り出すと、マスターは我に返ったような顔をして、「ああ」と両手を身体の後ろに回した。
マスターの滑らかな頬は、赤みを帯びているように見えた。──それが未桜の都合のいい勘違いでなければ、心なしか。
余計に、分からなくなる。
憧れの存在である彼の本心が、まったく。
「……邪魔だなんてとんでもない。今はお客さんがいないんだから、未桜さんもここで休憩してくれて構わないんだよ。……あ、よかったら、飲み物を持ってこようか。オレンジジュースでもいい?」
「あの、じゃあ水を……」
「あ、ミネラルウォーターは冷えてなかったかもしれない。オレンジより、パイナップルジュースのほうが好みかな? もちろん、どちらも変な効能はないから安心して」
取り繕うように言い、カウンター内へと大股で歩いていく。
そんなマスターの後ろ姿を、未桜は胸の痛みをこらえながら見送った。
今、窓の外には、青々とした芝生が広がっている。
それは実際の光景か──それとも、彼の記憶の中のワンシーン、なのだろうか。
《二〇二一年四月九日 来店予定者リスト》
・名前:八重樫未桜
・性別:女
・生年月日:二〇〇〇年四月八日(享年二十一歳)
・職業:大学生
・経緯:通学中に急病で倒れて救急搬送される。翌朝、父親に見守られながら、病院で息を引き取る。
・来店予定時刻:八時十一分
未桜が来世喫茶店で働き始めてから、三度目の夜明けがやってきた。
窓の外、遥(はる)か向こうに見える山々の稜線が、金色に輝き始めている。この雄大な景色は、先ほどまでカウンター席でメモリーブレンドを飲んでいた、登山が趣味だったというおじいさんの記憶だろうか。
不思議なことに、来世喫茶店に滞在するお客さんの数には、時間帯ごとに波があった。
どういう理由があるのかは分からないけれど、大抵の場合、真夜中は忙しい。朝が近づくにつれて、だんだんと店内が閑散(かんさん)としてきて、ほっと一息つけるようになる。
今日は、その時間帯が比較的早く訪れたようだった。二時間ほど前にはほとんどの席が埋まっていたのが嘘のように、今は一人もお客さんがいない。
「ねえねえ、未桜さん、未桜さんっ」
流しに溜まっていたお皿を洗っていると、バックヤードで豆の発注業務を手伝っていたはずのアサくんが、軽やかな足音を立てて戻ってきた。
「朗報ですっ! 僕が一生懸命頼み込んだところ、マスターが、未桜さんのカウンセリングをやってくれることになりました! ねえねえ聞いてます?」
「……えっ?」
顔を横に向けて初めて、得意げな顔をしているアサくんが、背の高いマスターの手を引いていることに気づく。バックヤードから無理やり連れてこられたらしく、マスターは気まずそうに苦笑していた。
お皿洗いを中断し、タオルで手を拭きながら二人に向き直る。動揺を隠せないまま「か、カウンセリングって?」と尋ねると、アサくんが堂々と胸を張って答えた。
「ほら、未桜さん、『あんまり家には帰りたくない』って言ってたじゃないですか! 来世喫茶店でのアルバイトが楽しいからっていうのは建前で、本当は何か事情があるんでしょう? マスターはものすごく聞き上手ですから、悩み事を洗いざらい打ち明けたら、きっとすっきりしますよ。ほら、早くカウンター席に座ってくださぁい」
「ちょ……ちょっと待ってよ!」
事情があるというのは図星だった。だからこそ、アサくんに何度か探りを入れられても、はぐらかし続けていたのだ。
マスターの視線を意識しながら、未桜はしどろもどろに抵抗した。
「私のことは、気にしなくていいってば! 私はまだ、ここのお客さんじゃないし……ほら、カウンセリングティーを注文したわけでもないし……」
「それでもいいって、マスターが言ってくれてます」
「えっと……あ、そうだ、お皿洗いもまだ残ってるし……」
「それは僕がやっておきますっ!」
「で、でも……カウンセリングで私の悩みが解決したところで、めでたしめでたしって現世に帰れるわけじゃないんでしょ? せめて、アサくんに黄色いチケットを見せられた記憶を消す方法が、ちゃんと見つかってからじゃないと……だから今はまだ……ですよねっ?」
思いつくままに言い訳しながら、恐る恐る、マスターの顔を見上げる。
すると彼は、「うーん」と唸り、ためらうように睫毛の長い目を伏せた。
「実は、そっちの問題は、解決しようと思えばどうにかなるんだけどね」
「えっ⁉ 私の記憶を消す方法、見つかったんですか⁉」
「まあね」
マスターは意外なほどあっさりと言い、隣のアサくんへと目を向けた。
「ただ、それを試すのは、カウンセリングを終えてからにしようかと。未桜さんの抱えている悩み事について、アサくんがどうしても気になるみたいだから」
「僕だけのせいにしないでくださいよ。マスターだって、すごく心配してたじゃないですか!」
「それはもちろん。未桜さんは、僕にとって……とても大切な存在だし」
予想もしていなかった言葉に、不意を突かれる。
驚いて目を瞬くと、マスターがこちらを見つめ返してきた。冗談か、もしくは社交辞令かと思ったけれど、彼の漆黒の瞳には真剣な光が宿っていた。
「あれぇマスター、それって、『店員として』ですか? それとも──」
「どっちでもいいじゃないか」
アサくんのからかうような台詞を、マスターが照れ隠しをするような口調で遮る。
どっちでもよくないよ──と、未桜は密かに、心の中で叫んだ。
昨日、町井加奈子の来店直前にバースデーサプライズをしてくれた頃から、マスターの態度はなんだかおかしかった。ふとしたときに未桜をじっと見つめていたり、「まだ十九歳か……」と複雑そうに呟いたり。二人きりになると未桜を抱きしめたり、握った手を離そうとしなかったり。
その真意の読めない一挙一動が、未桜の心を搔き乱していた。
「それで……どうしようか? 気が進まないようなら、無理にとは言わないよ。お客様にドリンクの選択肢があるのと同じように、未桜さんにも、僕たちに相談をするかどうかの自由があるわけだし」
マスターが、こちらの心境を推し量るように、遠慮がちに尋ねてきた。
その隣ではアサくんが、「未桜さんはもっと、人に心を開いたほうがいいですっ!」と胸の前で拳を握っている。
──どうしよう。
未桜はその場に立ち尽くしたまま、十秒ほど、目をつむって考えた。
せっかく親しくなった二人に、今さら深刻な話をして、その場の空気を塗り替えてしまうのは嫌だった。──けれど。
マスターの、こちらの心を解きほぐすような笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
迷った末、ようやく答えを出し、ゆっくりと頭を下げた。
「……お願いします。マスターのカウンセリング、受けさせてください」
「そっか。せっかくだから、そこに座ってもらおうかな。そのほうが、僕も話が聞きやすいんだ」
マスターがにこりと微笑み、カウンター席を指差した。その指示に素直に従い、カウンターを回り込んで、マスターの真向かいに腰を下ろす。“お客さん”としてここに座るのは、新鮮な気分だった。
アサくんが気を利かせて、「お水、要りますか?」と訊いてくる。喉はあまり渇いていなかった。未桜は「大丈夫」と首を左右に振り、さっそく本題を切り出した。
「私が今、悩んでいるのは……お父さんとの関係について、です。私には隠してるつもりなんでしょうけど──なんだか、新しい女の人がいるみたいで」
自分の家族について、他人に相談するのは初めてだった。
どこから話していいのか分からず、順番がめちゃくちゃになってしまう。
カウンターの向こうからギリギリ顔を覗かせているアサくんが、はっと口元を押さえ、大きく目を見開いた。「上手く話そうとしなくていいからね」というマスターの優しい声に助けられ、未桜はやっとの思いで言葉を繋いだ。
「でも、あの、不倫とかじゃないんですよ! うちはお父さんと私の二人暮らしで……というのも、お母さんは二年前に病気で死んじゃったんです。だから、別に、お父さんが新しいパートナーを見つけて幸せになるのは、全然悪いことじゃなくて……むしろ幸せなことなのかも、というか……」
目を合わせているわけではないけれど、マスターの包み込むような眼差しを感じる。頭の中がしっちゃかめっちゃかになりながらも、未桜は懸命に、自分の本音を素直に表す言葉を探した。
「家事はなるべく手伝ってるつもりだけど、お母さんみたいにテキパキできないし、ご飯はどうしてもレトルトが多くなっちゃうし……結局、仕事が忙しいお父さんにいろいろやってもらっちゃってて、そんな生活に疲れちゃったのかもしれないけど……だけど、私のお母さんは世界に一人だけだからっ」
話しているうちに涙が出そうになるのを、未桜は必死にこらえた。
「まだお母さんがいなくなってから二年しか経ってないのに、お父さんがもう、他の女の人のことを好きなのかもしれないと思ったら、どうしても複雑で。死んじゃったお母さんに申し訳なくて。私がもっとしっかりしてたら、お父さんが新しい恋をすることもなかったのかな、って……」
「自分を責めることはないよ。未桜さんは未桜さん、お父さんはお父さん。家族とはいえ、別の人間なんだから」
マスターが、一つ一つの単語を強調するように言った。ほんの一瞬、心の中に春のそよ風が吹く。けれど、胸のつかえはまだまだ取れない。
「私、嫌なんです。大学一年生にもなって、お父さんの新しい恋を応援できない自分が。『よかったね!』って、明るく声をかけてあげられない、嫉妬深い自分が」
「未桜さんは優しいな」
マスターが、一転して静かに呟いた。
全然、そんなことない──と思う。
優しくないから、第二の人生を始めようとしているお父さんに対して、濃い灰色の気持ちを抱いているのだ。相手の女の人の顔を頭の中に思い描いて、油性ペンで真っ黒に塗りつぶしたくなってしまうのだ。
そう。優しいのは、そんな未桜に温かい言葉をかけてくれるマスターのほうだ。
「はい! 質問ですっ!」
僕のことを忘れないでと言わんばかりに、アサくんがピンと右手を真上に伸ばした。
「未桜さんは、お父さんが新しい女の人と付き合ってるみたいだってことは、どうやって知ったんですか? どうも、ご本人から聞いたわけではなさそうですが」
「あ、それは、ええっと……いろいろあって……」
未桜は口ごもった。どこから、どういう順序で話せばいいのか、また分からなくなる。
そんな未桜の心を読んだかのように、マスターがさらりと提案した。
「説明しづらいようだったら、メモリーブレンドを淹れようか? 未桜さんの記憶を直接見せてもらったほうが、僕たちも状況が呑み込みやすいかもしれない」
「ええっ、メモリーブレンド⁉ 私、“生ける人”なのに、大丈夫なんですか? それに、見せたいのは、私の“最も大切な記憶”じゃないし……」
「全然問題ないよ。デカフェにすれば、来世に対する効果はなくなるんだ。メニューにはああ書いているけれど、再体験する記憶の対象だって、実は豆の配合や蒸らし方次第で自由に変えられるしね」
昨日、マスターが一人でメモリーブレンドを飲んでいた光景を思い出す。
──確かにこれはメモリーブレンドの一種だけど……効能は限定的でね。来世への影響は一切ないんだ。だから、生まれ変わるつもりで飲んでいたわけじゃないよ。
そういうことだったんだ、と合点する。
来世喫茶店で提供している特殊なドリンクには、すべてカフェインが入っている。“来世の条件”を左右するのは、その成分の量だったのだ。お客さんに水やミルクをいくらでもお出しすることができるのも、休憩中に店員の未桜がオレンジジュースやパイナップルジュースを飲ませてもらえたのも、そのため。
つまり、カフェインがごくわずかしか含まれていないデカフェにしてしまえば、来世への影響度は無視できる程度になり、記憶の再体験という効果だけを享受することができる──。
「分かりました。メモリーブレンドをいただいてもいいですか? 二人にお見せしたいのは……先週の日曜日に、デパートの化粧品売り場に行った日の記憶です」
「先週の日曜、デパートの化粧品売り場、だね。ちょっとお待ちを」
無数のコーヒー豆が並ぶ棚に、マスターがすっと手を伸ばした。デカフェの豆は、棚の上のほうに並べてあるらしい。迷いなくそのうちのいくつかを選び取り、ガラス瓶の蓋を開けて、手元の小さな器の中で数種類の豆をブレンドしていく。
この四日間で何度も見たはずなのに、気がつくと見とれていた。
ミルのハンドルをゆっくりと回す手。
粉を入れたペーパーフィルターに、お湯を回し入れていく動作。
一滴ずつサーバーに落ちていく焦げ茶色の液体を見つめる、慈愛(じあい)に満ちた目。
「──さて、できあがり。お待たせしました、デカフェのメモリーブレンドです」
マスターが自ら、カウンターの上から、ソーサーに載ったコーヒーカップを差し出してくれた。いそいそとお盆を引き寄せて待機していたアサくんが「あれぇ」と残念そうな声を上げ、振り返ったマスターが「ごめんごめん」と苦笑する。
未桜は右手の人差し指をコーヒーカップの持ち手に絡ませた。そして恐る恐る、左手をマスターに向かって差し出す。
「記憶を一緒に再体験してもらうには……私の身体に触れてもらわないといけないんですよね?」
「そうだね」マスターが、心なしか恥ずかしそうに言った。「じゃ、失礼するよ」
温かくて分厚い、大人の男性の手が、未桜の左の掌を包む。
未桜の心臓が破裂するのをすんでのところで食い止めたのは、「あ、僕も僕も!」とアサくんが隙間にねじ込んできた、細くて可愛い指だった。
「じゃ、飲みますね」
目をつむり、右手で持ち上げたカップに口をつけた。
喫茶店で四日も働いているというのに、ここでコーヒーを飲むのは初めてだった。
濃くてほろ苦い豆の味が、一瞬のうちに、口の中に広がる。
記憶の中で、未桜はデパートの化粧品売り場を歩いていた。
天井の白い光が、ピカピカとした白い床に跳ね返り、未桜の背筋をしゃんと伸ばさせる。
長年、憧れていた場所だった。ずらりと美しく陳列(ちんれつ)された口紅。色とりどりのアイシャドウ。鏡を挟んで笑い合っている女性販売員とお客さん。フロアに充満する香水の匂い。
子どもが立ち入るのは気が引けて、いつも小走りで通り過ぎていたけれど、今日は違う。明日、四月一日からはもう大学生だ。しかも都内の、二十三区内の。だから、テレビCMで一目惚れしたリップグロスを、ちょっと背伸びして買いにきた。
もしお母さんが生きていたら、「入学祝いね。高いから、お父さんには内緒よ」なんてウインクをして、未桜を連れてきてくれたのかもしれない。
だけど、それはもう叶わない。もうあれから二年も経っているから、涙が止まらなくなるほど悲しくなることもないし、未桜だってある程度は割り切っている。お父さんにリップグロスのことを話しても、「唇に赤い色がつけばいいんだろ? ドラッグストアで売ってる安いのじゃダメなのか?」なんて無神経なことを言われそうだから、今日はお年玉貯金を崩すことに決めていた。
丸(まる)の内(うち)や汐留(しおどめ)のお洒落な高層ビルとか、アパレル系の企業に勤めているような父親だったら、こういうときも頼りになったのかもしれない。
でも、未桜のお父さんの仕事は、住宅の建築工事の現場監督。年がら年中真っ黒に日焼けしていて、毛玉だらけのセーターや着古したTシャツばかり身に着けている父親に、化粧品の相談なんてできるはずがなかった。
好きな女優さんが出ている、光まばゆいCMの映像を思い浮かべる。斜体の文字で書かれたブランドのロゴはどこにあるだろうかと、未桜はきょろきょろと辺りを見回しながら化粧品売り場の通路を歩いた。
フロアはだだっ広くて、なかなか目的の場所が見つからない。
未桜がはっとして足を止めたのは、仲良さそうに会話をしている男女が横の通路から出てきた瞬間だった。
「あのグロス、実は気になってたんですよぉ。明日からさっそく使おうっと」
「それはよかった。そう言ってもらえて、俺も嬉しいよ」
その声に、背筋がすっと冷えた。
とっさに柱の陰に飛び込む。聞き間違いであることを願いながら、少しだけ首を伸ばして、角を曲がって去っていこうとしている男の姿を確認した。
あ、やっぱり違った──と、未桜は一瞬安堵(あんど)した。中年の男性が、紺色のジャケットにベージュのパンツという、スタイリッシュな服装をしていたからだ。けれど、女の次の台詞を聞いて、未桜はその場で硬直した。
「ヤエさん、大丈夫ですか? 右手、怪我してるのに。それ、やっぱり私が持ちますよぉ」
「いいよいいよ。もうだいぶよくなってきてるから。まだ包帯は取れないけど」
「早く治るといいですね。というわけで荷物はこちらへ」
「ああ、いいって! ……ったく、カオリさんは強引だなぁ」
三十代前半くらいの綺麗な女性が、よく日焼けした中年男の腕に絡みつくようにして、小さな水色の紙袋を奪い取っている。
男が笑いながら伸ばした右手の指先には、白い包帯が幾重(いくえ)にも巻かれていた。
二週間前に、現場の職人さんたちを手伝ってトラックの荷台から木材を運ぼうとした際、崩れてきた他の木材との間に挟んで骨折してしまったという、右手の人差し指──。
唇の間に覗く白い歯。フロアに響く、豪快な笑い声。
柄にもなくめかし込んだあの人は、間違いなく、未桜の父だった。
ヤエさん。
カオリさん。
苗字を縮めた愛称と下の名前で呼び合い、仲睦まじく紙袋を取り合っている二人の関係は、容易に想像がついた。
未桜はとっさに身を翻した。
気が動転して、泣きそうになりながら、足音を忍ばせて走り去る。
買い物の用事のことは、もはやすっかり忘れていた。そのままデパートの正面玄関を飛び出し、駅への道をひたすら駆けた。
女性がつけていたリップグロスの真っ赤な色が、何度も何度も、目の前でちかちかと光る。
未桜はメモリーブレンドをもう一口、ごくりと飲んだ。
気がつくと、自分の部屋のベッドに横向きに寝転がっていた。
デパートから逃げ帰ってきてから、未桜は布団を頭からかぶり、スマートフォンの画面ばかり眺めていた。
表示しているのは、高校の入学式の日に、校門の前で撮った家族三人の写真だ。
似合わない紺色のジャケットを羽織っているお父さんと、えんじ色のワンピースを着たお母さん。その二人の間に挟まれている、真新しい制服に身を包んだ自分。
写真の中では、お父さんもお母さんも、そして未桜自身も、晴れやかな笑みを浮かべていた。
元気だった頃のお母さんと一緒に撮った、最後の家族写真。
「これをスマホに送りつけたら……お父さん、目を覚ますかな」
枕に独り言をこぼす。
数秒間写真を見つめてから、力なく首を横に振る。
「……そんなことしちゃ、ダメか」
未桜にだって分かっていた。
お母さんは、もう二年も前に亡くなっている。
だからこれは不倫じゃない。自分には、お父さんの恋を邪魔する権限なんてない。一回りも若い女の人とイチャイチャしていたことを、決して咎めてはいけない──。
玄関のドアが開く音がしたのは、未桜が幾度となく同じ台詞を自分の胸に言い聞かせた、赤い西日の射しこむ夕暮れ時だった。
「ただいまぁ」
間延びした声が聞こえてくる。いつもと同じようでいて、声のトーンが少しだけ、楽しそうに上ずっていた。
デパートで鉢合わせさえしなければ、まったく気がつかなかっただろう。出がけに言っていた「今日はお父さん、ジムに行ってくるわ。最近サボりがちだったからな」という台詞を、頭から信じていたはずだ。
返事する気も起きず、未桜はベッドに横たわったまま、じっと黙っていた。
未桜の部屋は、ダイニングと繋がっている。玄関の鍵はかけていたし、部屋から電気の光も漏れていなかったから、娘がすでに帰宅していることに気づいていないようだった。
帰りに晩御飯の買い物にでも行っていたのか、ガサゴソとビニール袋から食材を出す音がする。
何もかもが忌々(いまいま)しかった。父ののそのそとした足音も、冷蔵庫の開閉音も、ビニール袋を畳む音も、「ああ、今日は疲れたな」なんていう能天気な独り言も。
未桜はベッドに寝転がったまま、ごろりと向きを変え、布団から手を伸ばして床に置いたバッグを漁った。中からイヤホンをつかみ取り、スマートフォンに接続する。
しばらくの間、未桜は音楽で耳を塞いだ。
好きなアーティストのベストアルバムのはずなのに、蜂がブンブン飛び回るような音が頭の中で鳴り続けていて、メロディはこれっぽっちも頭に入ってこなかった。
そのことにいっそう腹を立て、ため息とともにイヤホンを両耳から引き抜いた直後──信じられない声が、未桜の耳に届いた。
「……愛してるよ」
ダイニングのテレビで、恋愛ドラマの録画を再生しているのかと思った。
でも、違った。
「……うん、やっぱり大好きだ」
「また会いたいなぁ……うへへ」
他でもない、お父さんの声だった。隣の部屋から、はっきりと聞こえてくる。
スマートフォンで電話でもしているのか、声は途切れがちだ。
先ほどデパートでお父さんの横を歩いていた、カオリという名の女性の顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
きっと、デートのお礼の電話でもかかってきたのだろう。デパートで見かけたとき、お父さんがあの女性に、化粧品を買ってあげていたみたいだったから。
お父さんのほうから積極的に電話をかけた可能性は、考えたくなかった。
やめてよ──、と呟く。
ダイニングにいるお父さんには届くはずもない、蚊の鳴くような声で。
未桜の願いに反し、非情にも、長電話は続いた。
「……いやあ、本当はもっといろいろ買ってあげたかったけどさぁ。……最近、ボーナスが少なくて。……ほら、四月から未桜が大学に入るだろ? これから毎年学費を払ってたら、家計が火の車になりそうだ。……うう、つらいつらい」
「……そういえば、この間、俺が大事にしてたグラスが割れちゃってさ。……未桜が食器棚にしまおうとして、落っことしちまったらしいんだ。……本当、困ったもんだよ。今日、同じのが売ってないか、デパートで見てみればよかったな」
ところどころで自分の名前が聞こえてきて、ベッドの上で凍りつく。
お父さんが新しい女の人と付き合っているというだけなら、まだよかった。いや、よくはないのだけれど、少なくとも受け入れる努力をしようと思えた。
けれど、娘の愚痴をあけすけに話し、知らない女の人との会話のネタにしているなんて──ショックだった。
許せなかった。
「ふざけないでよ!」
バン、と大きな音がした。自分が部屋のドアを乱暴に開け放ち、反対側のドアノブが壁に激突した音だった。
椅子から立ち上がったお父さんは、目を真ん丸に見開いていた。未桜がテーブルの上のスマートフォンを睨むと、「あ、いや」と弁解するように両手を左右に振る。
「未桜、聞いてくれ、違うんだ。これは──」
椅子の背にかかっているのは、入学式の写真でお父さんが羽織っていた紺色のジャケットだった。
こういうきちんとした上着は一着しか持っていないから、仕方ないのかもしれない。
だけど、せめて、別の女の人とのデートには、別の服で行ってほしかった。
「やめて。お父さんとはもう話したくない!」
未桜は目を泳がせているお父さんを一睨みし、開けたときと同じくらい激しく、ドアを閉めた。
衝撃で、家中の空気が震える。
未桜はドアにもたれかかり、その場にずるずると座り込んだ。
ハーフアップにした髪に手をやり、リボンをほどく。
かつてお母さんが使っていた、青みがかった緑色のリボンを手に、未桜は泣き崩れた。
すすり泣きの声は、きっと、ダイニングにも届いていただろう。
あれ以来、たった一人の同居人とは、一言も口を利いていない──。
「うーん、確かに、これはつらいですねぇ」
マスターと未桜の手の間から細い指をすっと抜き、アサくんが一人前に腕組みをした。
我に返ったように、マスターも未桜の手を放す。触れ合っていられるこの時間が終わるのが、ちょっとだけ寂しかった。
それでも、アサくんが同意してくれたのが嬉しくて、思わず椅子から腰を浮かす。
「でしょ? でも……どうにもならないんだよね。だって、悪いことじゃないんだもん。お母さんが亡くなって、もう二年も経ってるわけだし」
「それはそうですけど、未桜さんに関する愚痴をわざわざ相手の女性に言ったのは、お父さんが悪いですよね? 未桜さんが気分を害するのは当然です!」
「まあね。でも、それだって、私の過剰反応なのかも。学費のことだって、娘がグラスを割っちゃったことだって、考えてみれば他愛もないというか……人の親だったら誰にでもする話だよね。電話の相手がお父さんの新しい恋人だったから、無性にイライラしちゃっただけで」
そうなのだ。──全部、こちらの過剰反応。
あのあと、ドアをノックする音が聞こえても無視したり、話しかけてこようとするお父さんを何度も追い払ったり、ご飯の時間をわざとずらしたりした。お父さんが悲しむだろうことは分かっているのに、そうせずにはいられなかった。
どちらが悪いかと言われれば、未桜だ。
いつまでも自分だけのお父さんでいてほしいと、自分勝手に願っている、未桜が悪い。
「だけど、未桜さんのお父さんって、ちょっと……かわいそうですね」
先ほど責める発言をしたことを反省するように、アサくんがカウンターの向こうでため息をついた。
「二年前に奥さんを病気で亡くして、今度は二年後に、一人娘の未桜さんまで……。長い目で見ると、やっぱり、心の支えになる新しいパートナーは必要なのかもしれない……なんて思ったり……」
「それだっ!」
思わず椅子から立ち上がり、アサくんの顔を指差す。「なっ、何ですか⁉」と後ずさったアサくんに、未桜は半分やけになりながら言い放った。
「そうだよ! お父さんに、二年待ってもらえばいいんだ! それだけのことだったんだよ!」
「えっ……どういうことですか?」
「だって、二年後には私はいなくなるでしょ? そしたらお父さんも、何も気にすることなく、あの女の人と再婚できるよね。学費も浮くし、恋愛の邪魔をしようとする娘がいなくなってせいせいするはず。相手の女の人も、十九歳の連れ子なんて面倒だろうし、きっと喜ぶよね!」
「……未桜さん!」
「私がどんなわがままを言ったって、あとたった二年の辛抱で、お父さんはあの人と幸せになれるんだよ。二人の恋を応援しようとか、新しい母親を受け入れようとか、私が一生懸命心の整理をつけなくたって、どうせ時が解決してくれるんだよね。私がこんなふうに悩んでること自体、全っ然、意味のないことだったんだよね!」
「もう、未桜さんってば! 自暴自棄にならないでください!」
アサくんが急に叫んだ。
珍しく、本気で怒っているようだった。色白の顔が真っ赤になっている。
「未桜さんはもっと、自分の気持ちに素直になってください。つらいならつらい、悲しいなら悲しい、嫌なら嫌って、はっきり言ってください。未桜さんは強がりすぎなんですよ。複雑とか、過剰反応とか、そんな遠回しの言葉は要らないです。何のために僕らが話を聞いてると思ってるんですかっ!」
両腕をぶんぶん振り回し、焦れたように未桜を叱る。それからはっとした顔で隣のマスターを見上げ、「……って、カウンセリングは、僕の仕事じゃないんですけど」と身を縮める。
マスターは、じっと未桜の顔を見つめていた。
何か声をかけてくれるかと思ったけれど、うん、と曖昧に頷いたきり、また黙ってしまう。
──どうしようもない相談だって、呆れてるのかな。
そう考えると、後悔が募った。
カウンセリングなんて、やめておけばよかった。アサくんと楽しくお喋りをしながら接客をして、マスターが淹れたコーヒーや紅茶をお客さんの元へ運んでいられれば、それでよかったのに。
「そういえば、最近、お父さんが休日に外出することがやけに多かったんだよね。散歩だとか買い物だとか、そのたびに違う用事を口にしてたけど、今考えるとあれ、全部デートの約束だったんだね」
重苦しい空気に拍車をかけるように、自分を傷つける言葉が口を衝いて出た。
「私がリビングに入ると、バツが悪そうな顔をして、こそこそと何かのパンフレットを隠したこともあったなぁ。あの女の人と旅行に行く計画でも立ててたのか……あ、ひょっとして、結婚式場選びかもね」
「未桜さんったら……」
アサくんが眉をひそめた。打つ手なしです、どうしましょう、とでも言いたげに、またマスターの顔を見る。
すると不意に、マスターが無言で未桜に背を向けた。
愛想を尽かされた──のでは、なかった。
マスターが向かったのは、コーヒー豆が並ぶ棚だった。
彼が無数の瓶を吟味し、手元の器に再び豆を集め始めたのを見て、未桜は慌てて声をかけた。
「あ、あの、マスター……どうしたんですか? メモリーブレンドなら、まだ余ってますけど」
「未桜さんに、もう一杯、飲んでほしいドリンクがあってさ」
事もなげに言い、マスターは作業を続けた。
ブレンドした豆を、電動ミルで細かく挽く。
粉を小さな銀色のバスケットに入れ、表面をタンパーで軽く押し込む。
そして、大きなエスプレッソマシンに取りつけ、抽出ボタンに触れる。
アサくんも、目を白黒させて、その指先を追っていた。未桜と同様に、マスターが二杯目を用意し始めた意味がよく分かっていないようだ。
しかも、この手順は、メモリーブレンドではなく──。
ショットグラスに溜まったエスプレッソを、マスターがカップにあけた。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、ステンレス製のミルクジャグに注ぎ、スチームを始める。
できあがった滑らかなミルクフォームを、マスターが慎重な手つきでカップに流し込むと、大きなハート型のラテアートが浮かび上がった。
「できあがり。はい、どうぞ」
「あの……これ……」
目の前に置かれたカップと、薄い微笑みをたたえているマスターを、交互に見る。
「相席カフェラテ、ですよね?」
「そうだよ」
あまりに簡潔な答えに困惑していると、マスターが右手の指先をカップへと向け、未桜を促した。
「大丈夫。これもデカフェだから安心して。未桜さんのために作ったんだ」
「これを飲んだら……誰に会えるんですか?」
「いいから、飲んでみて」
お父さんだろうか──と、疑う。
今は朝方だから、お父さんは寝ているはずだ。だから、ここに魂を呼び出しても、日常生活に支障はないのかもしれない。
けれど、直接顔を合わせるのは、さすがに気が進まなかった。
かといって、せっかくマスターが淹れてくれた相席カフェラテを拒否するなんて、そんなひどい真似はできない。
「あ……えっと……私のお父さん、平日はけっこう早起きなんです! だから、魂が呼び出しに応じてくれないかも……」
「心配ご無用。相席カフェラテの力は、なかなか強いんだ。“生ける人”を呼び出す場合、現世では辻褄(つじつま)合わせが行われる。急に眠くなって二度寝をするとか、出勤中に電車内で居眠りを始めるとか」
「でも……ほら、昨日の小山内さんみたいに、本部から謎の禁止令が出ちゃったりするかもしれないし……」
「そんなことはめったに起こらないよ。まさに生まれ変わりの最中や、亡くなる間際じゃない限りは。あとは、相席カフェラテのダブルブッキングというのもなくはないね。二人の“向かう人”が、同じ相手を同時に指名してしまうんだ」
マスターが苦笑する。小山内砂羽のケースはそのどれかだったのか、と未桜はようやく理解した。だとすると、未桜の父にはまったく当てはまらない。
ささやかな抵抗が失敗に終わり、未桜は肩を落とした。苦しすぎる言い訳が可笑しかったのか、ふふ、とマスターが声を漏らす。
「いいから、飲んでごらんよ。怖がらずに」
「どういうつもり……ですか?」
「未桜さんが見ている世界は、あまりに一面的──ということかな」
マスターが含みを持たせた言い方をして、カウンターに視線を落とした。
彼の考えていることは、ちっとも分からない。
十年も一緒に働いているアサくんさえ分からないのだとしたら、まだアルバイトを初めて四日目の未桜に、分かるわけがない。
自信ありげな様子のマスターと、ぽかんと口を半開きにしているアサくんに見守られながら、未桜は相席カフェラテのカップを持ち上げた。
大きなハート型のラテアートが、未桜の口元に吸い込まれる。
ふわりと、懐かしい香りが、未桜の鼻腔に届いた。