昼下がりの太陽が、美しい黄緑色の芝生を柔らかく照らしている。
 白い石が敷き詰められた小道の真ん中で、黄色いチケットの束を手にしたアサくんが、薄茶色の髪を風になびかせながら振り向いた。
「よーし、じゃ、今のうちに行ってきちゃいますね! 混雑時間帯までには必ず帰ってきますので、それまでは一人で接客、よろしくお願いします」
「アサくんは忙しいねぇ。接客とチケット配りと、両方やらなきゃいけなくて」
 陽光の眩しさに目を細めつつ、「私も一緒に行こうか?」と申し出る。すると、アサくんが「あ、もしかして」とくるりと黒目を回した。
「未桜さん、そろそろ現世が恋しくなっちゃいました?」
「いやいやそんなわけないじゃん」
「……即答すぎて、逆に怪しいですよ。いったい現世で何があったんですか?」
「別に何も。アサくんが勘繰(かんぐ)りすぎてるだけじゃない?」
「もう! 未桜さんって、意外と秘密主義だなぁ。せっかく仲良くなったんですから、こっそり打ち明けてくれたっていいのにぃ」
 アサくんがもどかしそうに腰を振る。そんな愛らしい少年に向かって、未桜は「その話はおしまい!」と勢いよく人差し指を突きつけた。
「で? どうするの? チケット配り、もし大変なら私も手伝うけど?」
「ああ、いえ、それは大丈夫です! 店員登録されていない“生ける人”を堂々と連れ歩いていると、本部に見つかって面倒なことになるかもしれないですし……あと、喫茶店での接客以上に特殊な業務なので、一から教えるとなると時間がかかりますし、ミスも許されないですし……」
「間違えて私に二年も早く余命宣告したアサくんよりは、上手くやれると思うけどなぁ」
 未桜が冗談めかして呟くと、それは心外だと言わんばかりに、アサくんが色素の薄い眉を吊り上げた。
「あっ、あれはですねっ! 本部から送られてきたリストを日付順に並べ替えて印刷した際に、なぜか一つだけ二年後のデータが交じってしまって……通常では絶対にありえないミスというか、僕のせいじゃないというか……ぱっ、パソコンの不具合なんですっ!」
「はいはい、言い訳は分かったからいってらっしゃーい」
 アサくんの必死の弁解を受け流し、ひらひらと手を振る。彼は不満そうに唇を突き出しながらも、腕時計を確認し、せかせかと小道を走っていった。
 その小さな後ろ姿が、ぽん、と途中で魔法のように消えるのを見届けてから、未桜は回れ右をした。
 喫茶店の入り口の扉は、開け放してあった。
店内に一歩足を踏み入れようとして、ふと立ち止まる。
 中では、マスターが一人、中央のテーブル席に腰かけていた。
 片手に店員用のマグカップを持っているのを見るに、束の間の休憩を取っているようだ。未桜が外から帰ってきたのにも気づかない様子で、こちらに背を向けて、ぼんやりと宙を見つめている。
 ──どうしたんだろう?
 未桜は入り口の扉に手をかけたまま、黒いベストに包まれたマスターの背中を眺めた。
 ふと、町井加奈子の来店中に起こった、控え室での出来事を思い出す。
 未桜の頭をぽんぽんと優しく叩く、彼の大きな手。
そして、未桜の身体をすっぽりと包み込んだ、男の人らしい硬い腕と、広くて分厚い胸──。
 考えた途端、頬がかっと熱くなる。
 あれはいったいどういうことだったのだろう。
 手作りケーキでバースデーサプライズをしてくれたことといい、控え室での思わせぶりな態度といい、マスターが急に示し始めた親しげな行為の意味を、そのまま素直に受け取っていいのだろうか。
 ──私の思いを知ってて……応えてくれて……る?
 十九歳になったばかりの未桜と、大人の色気を漂わせている二十代後半のマスター。無謀な片想いかと思っていたけれど、案外、向こうも同じ気持ちでいてくれたのかもしれない。
自然とにやけそうになるのを、未桜は必死にこらえた。
足音を忍ばせ、そばに近寄る。
そして、無防備な広い背中に、そっと手を伸ばした。
「マスター──」
彼の温もりが指先に伝わりかけた、その瞬間だった。


未桜の頭の中に、突如として、色鮮やかな映像が流れ込んだ。


先ほどアサくんと別れたばかりの、喫茶店の目の前にある、青々とした芝生に挟まれた白い小道。
その中央に、綺麗な女の人が立っている。
マスターと同い年くらい、だろうか。艶のあるセミロングの黒髪が印象的な、凛とした佇まいの女性だ。
彼女がこちらに向かって、小さく手を振った。もう一方の手には、お土産のクッキーの袋が握られている。
「静川さん──いえ、孝之(たかゆき)さん」
 彼女が名残惜しそうに微笑んだ。
「いろいろありがとう。あなたのことは、ずっと忘れないわ」
 白いワンピースを着た彼女の後ろ姿が、徐々に遠くなっていく。


 僕もだよ──と、自分の口が勝手に動いた。
 両の頬を、熱い涙が伝う。