長年心の底に貼りついていた鈍(にび)色(いろ)のシミを、涙が洗い流したようだった。ようやく顔を上げたとき、加奈子はよく晴れた夏の早朝のように、さっぱりとした表情をしていた。
「ありがとう、マスター。茶葉をブレンドしていただく前に──一つ、前言撤回してもいいかしら」
「はい。何ですか?」
「さっき、『来世では、とにかく平穏に生きたい』って言ったけど、やっぱりやめておくわ。砂羽と一緒に駅前でストリートライブをして、たくさんのお客さんを集めた経験は、とても非日常的で、華々しいものだったから」
 懐かしそうに目を細め、「あの思い出を否定するような来世にするわけにはいかないわ」と、決意のこもった口調で言う。
「私の希望はそれだけ。あとはマスターの腕を信じるわ。……あ、強いて言うなら、お金はそんなに要らないわね。あれで私は失敗したから」
「かしこまりました。お任せいただきありがとうございます」
 少々お待ちくださいね、とマスターは言い置き、いろいろな種類の茶葉が入った瓶が並べられている棚に向かった。
「ベースはさっぱりと、爽快に……かつ、ちょっとした刺激を。クローブ、シナモン、ペッパー、カルダモン……さて」
 コーヒー豆を選ぶときと同じように、彼の手つきに躊躇(ちゅうちょ)はなかった。
 次々と茶葉やスパイスが入った瓶を開け、ごく少量ずつ、手元の白い器に集めていく。
 ブレンドした茶葉をティーポットに入れ、高めの位置からお湯を注ぐ。
 透明なガラス容器の中で、茶葉が舞い、踊る。
 回転するお湯が、みるみるうちに色づいていく。
「さあ、できあがり。うん……いい香りだ」
そしてマスターは、ティーポットとカップを自らお盆に載せ、町井加奈子のもとへと運んでいった。
「お待たせいたしました。町井さまのためにブレンドさせていただいた、オリジナルのフレーバードティーです。スリランカ産の紅茶・ディンブラをベースに、数種類の茶葉やスパイスをミックスしました。口当たりはマイルドでありながら強い香りを持ち、爽やかさと渋みが両立する味わいとなっております」
「あら、素敵ねえ。それで、これを飲むと、どんな来世を迎えられるの?」
「重視した要素は、『健康』と『人間関係』です。今回は四十七歳でご逝去(せいきょ)となりましたが、来世ではもっと長生きできますように。また、音楽仲間の小山内砂羽さんや、最期まで見守り続けてくれた優しい旦那さんのような、町井さまが深く心を通わせあえる相手に、来世でも出会えますように。そんな願いを込めました」
「スパイスは、さっきの私の希望を反映させるために?」
「そうです。ただ平穏なだけではなく、刺激的な出来事がたびたび起こる人生を、ぜひお楽しみいただければと」
 ふふ、と加奈子が笑った。
 完璧ね──と、吐息とともに、感じ入ったような言葉が漏れる。
「今から来世が楽しみだわ。いっそのこと、今回の倍くらい長く生きたいわねえ。あと、次は専業主婦じゃなくて、砂羽みたいなカッコいいキャリアウーマンになれたら嬉しいわ。ただし、ホワイト企業でね」
「素敵な構想ですね。あと三十秒ほど蒸らしてからお召し上がりいただければ、町井さまのご希望に最も近い形になるかと思います。ミルクともよく合いますので、お好みでどうぞ」
「ありがとう。そのとおりにするわ」
 加奈子の口調には、マスターへの信頼と満足感がにじみ出ていた。
 きっかり三十秒後に、加奈子はティーポットから紅茶を注ぎ、たっぷりとミルクを入れて、フレーバードティーを飲み始めた。
 マスター特製の紅茶を味わい尽くした加奈子が、入り口横の棚からクッキーの袋をつまみ上げ、ゆったりとした歩調でお店を出ていく。
「ありがとうございました!」
 マスター、アサくん、未桜の声が、一つに重なった。
 扉が閉まる。
 その瞬間、未桜は確かに聞いた。
 空高く昇っていく、バイオリンとピアノの、軽やかな音色を。