ぐるぐると回り続けていた思考がようやく停滞し、まどろみの世界に足を踏み入れた、まだ薄暗い朝方のこと──。
 加奈子は、自分が咳き込む音で目を覚ました。
 焦げ臭さが鼻を突く。息を吸おうとした瞬間、またむせた。
 すぐには状況を理解できなかった。自分が夫の書斎にいること、寝室は砂羽に取られてしまったこと、大喧嘩をしたまま寝てしまったことを、パズルのピースを拾うように思い出す。
部屋の空気が、かすかに濁って見えた。パチパチと何かが爆(は)ぜるような音が聞こえ、加奈子はソファベッドから転がり落ちるようにして書斎から飛び出した。
二階の廊下には、灰色の煙が充満していた。
パジャマの袖で、鼻と口を覆う。閉ざされた視界の中、廊下の一番奥にオレンジ色の大きな炎が揺らめいているのを見つけ、血の気が引いた。
寝室から、火の手が上がっている。
あそこには──砂羽がいる。
 パニックを起こして叫んでいる砂羽の声が聞こえてきた。何を言っているのかはよく聞き取れない。広い家の中で方向感覚を失っているのだと思い、加奈子は煙を掻き分けるようにして、できる限り寝室に近づいた。
「砂羽! 砂羽! 階段はこっちよ!」
 必死に呼びかけた。飛び散ってきた火の粉が、髪をチリチリと焼く。
 熱い煙が喉に流入する。命の危険を覚える。これ以上接近したら、戻れなくなりそうだ。
「早く来て! こっちに逃げれば助かるよ!」
「やめて! 来ないで!」
 ドア越しに、砂羽の切羽詰まった声が返ってきた。聞き間違いかと思ったが、彼女ははっきりと叫び続けた。
「嫌だ! あっちに行って!」
「何言ってるの! 早く逃げないと──」
「やめてよ!」
 喉を嗄らした絶叫だった。この期に及んで拒否されたことに衝撃を受ける。まるで昨夜の喧嘩の続きをしているようだった。
 タイムリミットが迫っていた。目の前の炎が崩れかかってきて、加奈子はじりじりと後ずさった。
 そして、寝室に背を向け、一目散に廊下を走った。
 書斎のそばの階段を駆け下り、パジャマのまま、玄関から外に飛び出す。隣の家のインターホンを押し、危険を知らせるとともに、一一九番への通報を頼んだ。
 サイレンを鳴らしながら、何台もの消防車と救急車が駆けつけてきた。
 加奈子が覚えているのはここまでだ。あとは隣近所の人たちに両腕をつかまれたまま、火の中に置いてきてしまった彼女の名前をひたすら叫んでいたことしか、記憶にない。
 砂羽は、二階の寝室から、遺体で見つかった。
 後々聞いたところによると、火災の原因はアロマキャンドルだったのだという。「砂羽の仕事疲れを癒せるかなと思って、準備したんだ。寝る前に使おうね」と事前に伝えておいたのが、裏目に出たらしい。マッチもそばに用意していたから、酒に酔っていた砂羽が自分で火をつけ、そのまま寝てしまったのだろう。
それが何かの拍子に倒れ、キャンドルの火がカーペットやカーテンに燃え移ったのではないかというのが、警察や消防の見解だった。春先の乾燥した空気も、火の回りを加速する原因の一つだった。
そうして小山内砂羽は死んだ。
本来、死ぬような火事ではなかったのだ。加奈子が呼びかけたタイミングで寝室から出てきていれば、火傷は負うことになったかもしれないが、ほぼ確実に命は助かっていた。
なぜ、あのとき砂羽は、加奈子のほうに逃げてくるのを頑なに拒否し、部屋に閉じこもったのか。
故人に答えを訊くことはできない。残された加奈子は、その理由を想像しては苦しみ続けた。
やはり、寝る直前まで喧嘩をしていたからだろうか。あのような緊急事態でも口を利きたくないくらい、砂羽に嫌われてしまったのだろうか。口論の細かい内容はよく覚えてないが、自分はそれほどひどい言葉を、酔った勢いで砂羽にぶつけてしまったのだろうか。
もしくは、砂羽は働きすぎで、もともと精神的に参っていたのだろうか。加奈子との大喧嘩がきっかけでぷつんと糸が切れ、もう人生なんてどうだっていいや、このまま死んでもいいやと、捨て鉢な気持ちにさせてしまったのだろうか。
加奈子が寝室に近づいて声をかけなければ、いや、そもそもあの晩につまらない理由で喧嘩をしなければ、砂羽が自分の命を簡単に投げ出すようなことにはならなかったのかもしれない。