結婚三年目を迎えた四月。
専業主婦としての生活にも慣れ、加奈子は平穏な日々を過ごしていた。
 新年度早々、夫は二泊三日の出張に行くという。まだ子どももいないことだし、なかなか日中は会えない友人を新築の家に呼んでいいかと尋ねると、夫は二つ返事で許可してくれた。
 砂羽は相変わらず仕事に忙殺(ぼうさつ)されているようだったが、加奈子が“お泊まり会”の提案を話すと、「夜遅い時間からでよければ、ぜひ!」と、意外にも乗り気の反応が返ってきた。
 実家の両親が門限に厳しく、大学時代に自由に遊び歩けなかった加奈子にとって、女友達と二人きりで家に泊まるのは、生まれて初めてのことだった。
 その日、加奈子は心を浮き立たせながら、今か今かと親友を待った。昼間から家中を掃除し、花瓶の花を取り替え、寝室にアロマキャンドルを置き、砂羽の仕事疲れを癒せそうな酒のつまみを作った。あまりに夜が待ち遠しくて、時間が経つのがいつもよりゆっくりに感じられ、じれったかった。
 約束は夜の十時だったが、砂羽は一時間半以上遅れてやってきた。
仕事が予定どおりにいかないものであるということは、社長夫人として、加奈子も重々承知している。「ごめん! ちゃんと手土産を買おうと思ったんだけど、どこもお店が閉まってて!」とありったけのコンビニスイーツと缶チューハイを買って転がり込んできた彼女を、加奈子は快く受け入れた。
典型的なキャリアウーマン街道を突き進んでいる砂羽はもちろん、普段は酒を飲む機会などほとんどない加奈子も、実は平均的な女性よりもアルコール耐性があった。
加奈子と砂羽は、冷蔵庫にストックしておいた酒のつまみを次々と出しながら、夜遅くまで缶チューハイを片手に語らった。
お互いの近況報告。同級生の結婚や出産に関する噂話。好きだった歌手の最新のリリース情報や、世間を騒がせている政治のニュース。
こうして長々と顔を合わせるのが久しぶりだったからか、どんな話題も盛り上がった。高校時代の昼休みに戻ったかのような、開放感のある時間だった。
だからこそ、ついつい気が大きくなってしまったのかもしれない。
しこたま飲んだ酒のせいもあるだろう。気がつくと、加奈子は何度もしつこく、砂羽に誘いをかけていた。
「ねえ、砂羽ぁ、また一緒にセッションしようよ」
「そうはいっても、仕事がね」
「砂羽は私と違って才能があるんだからさぁ、いくら忙しくたって、ちゃちゃっと練習してすぐに弾けるでしょ」
「買いかぶりすぎだってば」
「私、砂羽とまた音楽をやりたいって、ずっと思ってたんだぁ」
「……はいはい」
「周りのみんなにもよく言われるんだよ。ストリートライブはもうやらないの、って。ねえ、聞いてる? 砂羽ぁ」
 砂羽が鬼のような形相(ぎょうそう)で立ち上がったのは、その瞬間だった。
「いい加減にして! セッションもライブも、もうやらないって言ったでしょ⁉ 加奈子はさ、私が今、どんなに大変な時期か分かってる? もう学生の頃とは違うんだよ。いつまでもあんなこと、やってられないんだよ。音楽なんて、所詮金持ちの道楽なんだよ!」
 唐突に怒られた──と感じた。
しかし砂羽にとっては違ったのだろう。何度も何度も加奈子の誘いを穏便(おんびん)にかわそうとして、ついに限界に達したのがあの瞬間だったのだ。
そのことに、加奈子は気づけなかった。
「はあ? 金持ちの道楽って何よ!」
「言葉のとおりだよ。音楽なんて、加奈子みたいに、お金にも時間にも余裕がある人がやればいいの!」
「バカにしてるの? ふざけないでよ!」
「それは加奈子のほうでしょ⁉」
 売り言葉に買い言葉で、大喧嘩が始まった。アルコールも、二人の怒りに火をつけた。三十分以上に及ぶ口論の末、「もういい。明日も出勤だし、もう寝るから」と砂羽が言い捨て、先に荷物を運んでいた寝室へと上がっていった。
砂羽と同じ部屋で寝る気は起きず、加奈子は結局、夫の書斎で眠りにつくことにした。普段、夫婦の寝室は一緒にしているのだが、仕事で不規則な生活をしている夫の希望で、予備のソファベッドを置いていたのだ。
 せっかく“お泊まり会”のために布団まで用意していたのに、結局、加奈子と砂羽は別々の部屋で寝ることになった。