軽口を叩き合う未桜とアサくんとは対照的に、マスターは真面目な顔をして加奈子と向き合っていた。
「小山内さんとの音楽活動は、卒業後も続けられたんですか?」
「ええ。大学時代もストリートライブは積極的にやっていたし……さすがに頻度(ひんど)は落ちたけど、お互い社会人になってからもね。二十代前半くらいまではやっていたかしら。あのときは楽しかったわ。お客さんの拍手や歓声、それに応える砂羽、交ざり合って天高く昇っていく音の粒……」
 まるでバイオリンとピアノの音に耳を澄ませるかのように、加奈子は言葉を止め、目を閉じた。しばらくして、「でもね」と彼女は暗い声で続けた。
「二十代半ばで、砂羽がアパレル系の大企業に転職してからは、二人で音楽をやることはほとんどなくなってしまったの」
「それは……なぜでしょう」
「誘いにくくなったのよ。砂羽の新しい職場では、ブラック労働がまかり通っていてね。彼女がとても仕事熱心で、上昇志向が強かったこともあって、朝から晩まで、下手すると会社に泊まり込みで仕事をするようになって……」
 一方の加奈子は、その頃ちょうど、親戚の紹介で縁談(えんだん)がまとまっていた。
お相手は、地元の千葉を中心に、全国でホテル事業を展開する、やり手の経営者。料理が得意な女性が好きだという彼は、幸い加奈子を気に入ってくれ、あれよあれよという間に結婚することになった。もちろん、結婚式には小山内砂羽も列席(れっせき)した。
自分が裕福な家の専業主婦になって、お互いの生き方がずいぶんと違ってしまったことも、軋轢(あつれき)を生む原因となったかもしれない──と、加奈子は寂しそうに語った。
「ストリートライブは無理でも、せめて個人的にセッションだけはしようって、私のほうから砂羽を定期的に誘ってたんだけど……とうとうそれも、忙しさを理由に断られるようになってね。たまに食事に行ったときにも、『この間、職場の同僚が自殺したんだよね。残業が多かったから労災になるかも』『三日くらい徹夜しても、アドレナリンが出るから意外と働ける。めまいや耳鳴りがするくらいで』なんて笑いながら話す砂羽を、そのたびに心配したものよ」
「小山内さんは、何と?」
「『大丈夫だってば』って、きまって笑うの。……目の下に、真っ黒な隈(くま)が浮き出た顔で」
 いつの間にか、加奈子と砂羽の関係性は逆転していたのだという。
 砂羽の勢いに押され、その情熱に巻き込まれるようにして音楽活動を続けていたはずなのに、性格までどこか消極的になってしまった彼女を、加奈子がことあるごとに遊びに連れ出すようになった。
 そう話す加奈子の表情は冴えなかった。
しかし、語り口は軽い。来店した当初に見え隠れしていたためらいや緊張は、すでに雲散霧消(うんさんむしょう)しているようだった。
 間違いなく、この人のおかげだ──と、隣に立つマスターの横顔を見上げる。
 何か新しい情報を聞くたびに、驚き、動揺し、喜怒哀楽(きどあいらく)を表に出し、早とちりしてすぐに突っ走ってしまう未桜とは、まったく違う。
 きっと、聞き上手とは、こういう人のことを指すのだろう。
必要最低限の相槌や質問を、優しく包み込むような視線とともに、さりげなく投げ返す。相手が作り出した言葉の波は、決して乱さない。
我が身を振り返って、恥ずかしくなるほどだった。
このマスターが経営する来世喫茶店だからこそ、カウンセリングティーというメニューに意味があり、大勢の“向かう人”たちが日々救われているのだ。
恋心に、尊敬が加わる。未桜の胸を覆っている、もどかしくてくすぐったい気持ちが、また大きくなっていく。
「こんなに一方的に喋ってしまって、大丈夫?」
「もちろんですよ」
 マスターが力強く言うと、加奈子は安堵の表情を浮かべた。
「それじゃ、もう少しだけ、話を続けさせてね」


 あれは、空気がからりと乾燥した、ある春の夜のことだったわ──。
 加奈子がマスターの端整な顔を見上げ、覚悟を決めたように語り出した。