「いいカップルだったなぁ……美しい愛の形っていうのは、ああいうのを指すんだね、アサくんっ」
「僕に同意を求められても困りますって。十一歳ですよ? 恋だとか愛だとか、ちょっとよく分からないです」
隣のカウンター席にちょこんと腰かけたアサくんが、肩をすくめる。「でも、感動したでしょ?」と未桜が顔を近づけると、「ええ、それはもう!」と少年らしい素直な反応が返ってきた。
梨沙たち三組のお客さんが次々と退店し、喫茶店には再び、束の間の静寂(せいじゃく)が訪れていた。
マスターは、バックヤードにいる。コーヒー豆を焙煎機にかける作業をしているらしい。本当はそばで見学したかったのだけれど、「次のお客様が来るまでにお店を掃除しちゃいましょう!」とアサくんに袖を引っ張られ、タイミングを逃してしまった。
まったく、空気を読んでくれたらいいのに。──って、そんなことを十一歳に求めるのも酷な話だ。
「まあ、アサくんはともかく……マスターは、どうなんだろう」
「マスター?」
「覚えてないくらいずっと前から、来世喫茶店で働いてるみたいだけど……この、現世と来世の間にある世界で、恋愛をすることってあるのかな? 例えば、系列店の店員さんと付き合ってる、とか」
「あれあれぇ? もしかして未桜さん、マスターのことが気になってるんですかぁ?」
アサくんが意地悪く目を輝かせ、顔を覗き込んでくる。「ちっ、違うよ! そんなわけないでしょ!」と慌てて否定したけれど、全身の火照りは抑えられなかった。
あはは、とアサくんが笑う。
「安心してください。僕が知る限り、マスターに恋人はいませんよ。ただ──」
「……ただ?」
「マスターは、この先二度と恋をしないって、決めてるみたいです」
えっ、と声が漏れる。
頭を殴られたような衝撃だった。両手を口に当てた未桜の前で、アサくんが申し訳なさそうに身を縮(ちぢ)める。
「僕がここで働き出す前なので、もうずいぶん昔になるみたいですけど……この喫茶店を訪れたお客様の中に、マスターと懇意(こんい)になった同い年の女性がいたそうなんです。お互いにほぼ一目惚れで、カウンター越しに話すうちに恋をして……でも、“向かう人”をいつまでもここに引き留めるなんてこと、できるはずがありません」
アサくんがちょっぴり悲しそうな顔をして、カウンターに目を落とした。
「マスターは諦めきれず、女性に水だけで何日も粘ってもらったり、ここの従業員に迎えられないかと本部に打診したりと、いろいろ手を打ったみたいなんですが……」
「水だけで何日も? その女の人、相当頑張ったんだね」
「でも結局、彼女には予定どおり、生まれ変わってもらうしかなくて」
「別れなきゃならなかった、ってこと? 両想いだったのに?」
「ええ。引き裂かれるときには悲しくて、メモリーブレンドを特別に、いつもより濃い目に淹れてあげたそうです。きっとマスターは、今でもそのお相手のことが忘れられないんでしょうね。時々、夜になるとお店の外に出て、寂しそうに星空を見上げていることがありますよ」
素敵で、切ない恋の話だった。
マスターに思いを寄せ始めていた未桜にとっては、つらい話でもある。
「悲恋(ひれん)、だね。それに……すごく一途」
ぽつりと呟く。かつてマスターに愛され、おそらく今も思われ続けているその女性が、とても羨(うらや)ましかった。
現世と来世の狭間にあるこの世界は、一見穏やかで、常に平和な時間が流れているように思える。
でも──それはそれで、やりきれないことも多いのかもしれない。
「さっ、そろそろ次のお客様がいらっしゃいますよ」
アサくんが椅子からぴょんと飛び降り、カウンターに置いていた来店予定者リストを手に取った。
「どうですか、未桜さん。来世喫茶店でのアルバイトには、慣れてきましたか?」
「まあまあかな。アサくんに教えてもらったことは、全部覚えたはず」
「それなら、しばらく接客をお任せしてもいいでしょうか? 僕、そろそろ現世に行って、三日後の来店予定者にチケットを配り歩かないといけないんです。未桜さんに誤ってチケットを渡してしまった一件で、業務が途中になってしまっているので」
「あ、そっか」
まだあれから半日も経っていないと思うと、不思議な心地がする。マスターも、アサくんも、ずっと前から一緒にいる仲間のような気がしていた。
マニュアルをひととおり頭に叩き込んだとはいえ、お客様対応を一人で行うのは、少し緊張する。「不安だなぁ」と顔をしかめると、アサくんがバックヤードの方向を指差した。
「大丈夫ですよ。分からないことがあったら、マスターに訊けばいいんですから」
「そう言われてもなぁ。こんな話を聞いちゃった後で、普通に喋れるかなぁ。ただでさえ、超絶イケメンのマスターと話すのは緊張するのに……」
「やっ、やめてくださいよっ! 未桜さんの態度が急に変わったら、僕が変な話を吹き込んだことがバレバレじゃないですか!」
目を白黒させるアサくんを可愛く思いつつ、「冗談、冗談」と立ち上がる。
「安心して行ってきて! 私はその間に、アサくんよりも優秀な店員になれるよう、めちゃくちゃ頑張っちゃうから」
「それは無理だと思いますけどね」
「否定が早い!」
「だって僕、勤務歴十年の大ベテランですよ? 未桜さんなんて屁でもないです」
「屁? 今、屁って言った?」
じゃれ合いながら、出入り口へと向かい、アサくんを送り出す。
外はすっかり夜だった。
暗闇の中に出ていったアサくんの姿が、途中でぽっと消える。
満天の星が、ちかちかと瞬きながら、エプロン姿の未桜を見下ろしていた。
「僕に同意を求められても困りますって。十一歳ですよ? 恋だとか愛だとか、ちょっとよく分からないです」
隣のカウンター席にちょこんと腰かけたアサくんが、肩をすくめる。「でも、感動したでしょ?」と未桜が顔を近づけると、「ええ、それはもう!」と少年らしい素直な反応が返ってきた。
梨沙たち三組のお客さんが次々と退店し、喫茶店には再び、束の間の静寂(せいじゃく)が訪れていた。
マスターは、バックヤードにいる。コーヒー豆を焙煎機にかける作業をしているらしい。本当はそばで見学したかったのだけれど、「次のお客様が来るまでにお店を掃除しちゃいましょう!」とアサくんに袖を引っ張られ、タイミングを逃してしまった。
まったく、空気を読んでくれたらいいのに。──って、そんなことを十一歳に求めるのも酷な話だ。
「まあ、アサくんはともかく……マスターは、どうなんだろう」
「マスター?」
「覚えてないくらいずっと前から、来世喫茶店で働いてるみたいだけど……この、現世と来世の間にある世界で、恋愛をすることってあるのかな? 例えば、系列店の店員さんと付き合ってる、とか」
「あれあれぇ? もしかして未桜さん、マスターのことが気になってるんですかぁ?」
アサくんが意地悪く目を輝かせ、顔を覗き込んでくる。「ちっ、違うよ! そんなわけないでしょ!」と慌てて否定したけれど、全身の火照りは抑えられなかった。
あはは、とアサくんが笑う。
「安心してください。僕が知る限り、マスターに恋人はいませんよ。ただ──」
「……ただ?」
「マスターは、この先二度と恋をしないって、決めてるみたいです」
えっ、と声が漏れる。
頭を殴られたような衝撃だった。両手を口に当てた未桜の前で、アサくんが申し訳なさそうに身を縮(ちぢ)める。
「僕がここで働き出す前なので、もうずいぶん昔になるみたいですけど……この喫茶店を訪れたお客様の中に、マスターと懇意(こんい)になった同い年の女性がいたそうなんです。お互いにほぼ一目惚れで、カウンター越しに話すうちに恋をして……でも、“向かう人”をいつまでもここに引き留めるなんてこと、できるはずがありません」
アサくんがちょっぴり悲しそうな顔をして、カウンターに目を落とした。
「マスターは諦めきれず、女性に水だけで何日も粘ってもらったり、ここの従業員に迎えられないかと本部に打診したりと、いろいろ手を打ったみたいなんですが……」
「水だけで何日も? その女の人、相当頑張ったんだね」
「でも結局、彼女には予定どおり、生まれ変わってもらうしかなくて」
「別れなきゃならなかった、ってこと? 両想いだったのに?」
「ええ。引き裂かれるときには悲しくて、メモリーブレンドを特別に、いつもより濃い目に淹れてあげたそうです。きっとマスターは、今でもそのお相手のことが忘れられないんでしょうね。時々、夜になるとお店の外に出て、寂しそうに星空を見上げていることがありますよ」
素敵で、切ない恋の話だった。
マスターに思いを寄せ始めていた未桜にとっては、つらい話でもある。
「悲恋(ひれん)、だね。それに……すごく一途」
ぽつりと呟く。かつてマスターに愛され、おそらく今も思われ続けているその女性が、とても羨(うらや)ましかった。
現世と来世の狭間にあるこの世界は、一見穏やかで、常に平和な時間が流れているように思える。
でも──それはそれで、やりきれないことも多いのかもしれない。
「さっ、そろそろ次のお客様がいらっしゃいますよ」
アサくんが椅子からぴょんと飛び降り、カウンターに置いていた来店予定者リストを手に取った。
「どうですか、未桜さん。来世喫茶店でのアルバイトには、慣れてきましたか?」
「まあまあかな。アサくんに教えてもらったことは、全部覚えたはず」
「それなら、しばらく接客をお任せしてもいいでしょうか? 僕、そろそろ現世に行って、三日後の来店予定者にチケットを配り歩かないといけないんです。未桜さんに誤ってチケットを渡してしまった一件で、業務が途中になってしまっているので」
「あ、そっか」
まだあれから半日も経っていないと思うと、不思議な心地がする。マスターも、アサくんも、ずっと前から一緒にいる仲間のような気がしていた。
マニュアルをひととおり頭に叩き込んだとはいえ、お客様対応を一人で行うのは、少し緊張する。「不安だなぁ」と顔をしかめると、アサくんがバックヤードの方向を指差した。
「大丈夫ですよ。分からないことがあったら、マスターに訊けばいいんですから」
「そう言われてもなぁ。こんな話を聞いちゃった後で、普通に喋れるかなぁ。ただでさえ、超絶イケメンのマスターと話すのは緊張するのに……」
「やっ、やめてくださいよっ! 未桜さんの態度が急に変わったら、僕が変な話を吹き込んだことがバレバレじゃないですか!」
目を白黒させるアサくんを可愛く思いつつ、「冗談、冗談」と立ち上がる。
「安心して行ってきて! 私はその間に、アサくんよりも優秀な店員になれるよう、めちゃくちゃ頑張っちゃうから」
「それは無理だと思いますけどね」
「否定が早い!」
「だって僕、勤務歴十年の大ベテランですよ? 未桜さんなんて屁でもないです」
「屁? 今、屁って言った?」
じゃれ合いながら、出入り口へと向かい、アサくんを送り出す。
外はすっかり夜だった。
暗闇の中に出ていったアサくんの姿が、途中でぽっと消える。
満天の星が、ちかちかと瞬きながら、エプロン姿の未桜を見下ろしていた。