「そういえばさ。道彦も、死んだとき、来世喫茶店に来たんだよね?」
「え? う、うん、そうだけど」
「何を注文したの?」
「……紅茶、だったかな」
 その答えを聞いて、梨沙が唇を尖らせる。
「どうしてあたしのことを呼び出してくれなかったの? 相席カフェラテで」
「それは」と、信田が言いにくそうに口をつぐんだ。「……梨沙に合わせる顔がなかったからだよ。たとえ来世喫茶店で楽しい会話をすることができたとしても、ひとたび現世に戻ってしまえば、梨沙は突然姿を消した俺を心の底から恨むことになる。そんなの、悔しいじゃないか。虚しいじゃないか。だから……注文できなかった」
 アサくんがちょこちょこと駆けてきて、未桜の横に立った。「相席カフェラテの力で呼び出された“生ける人”が、来世喫茶店で“向かう人”と会話した記憶を、現世に持ち帰ることはできませんからね!」と補足をして、えっへんと胸を張る。
「仮に信田さんが事の真相を話したとしても、長篠さまは現世に戻ると同時に、そのことを綺麗さっぱり忘れてしまいます。結局、お金を持ち逃げした結婚詐欺師だと思われてしまう運命は、どうやっても避けられなかったわけです!」
「そっかぁ……」
 なんて悲しい運命なんだ、と胸が締めつけられる。
 と同時に、ふと引っかかりを覚えた。
 ──相席カフェラテをメニューに載せていないお店も多いって、アサくんが言ってなかったっけ。
 急いでカウンターを振り返る。漆黒の瞳でこちらをじっと見ていたマスターに、未桜は「あ、あのっ!」と呼びかけた。
「さっきマスターに伝票を渡したとき、長篠さまの注文内容を見て不思議そうな顔をしてましたよね。もしかして……マスターは、信田さんの名前に見覚えがあったんじゃないですか? 例えば、半年前……信田さんが亡くなったときに訪れたのも、ここ日本三十号店だったとか」
「さすが鋭いね、未桜さんは」
 マスターが微笑み、カウンターから出てきた。薄暗い店内を横切ってきた背の高いシルエットを見て、信田が「あ、あのときの!」と驚きの声を上げる。
「その節はお世話になりました。俺の話をじっくり聞いてくれて……ボロボロになっていた心が温まるような、本当に美味しい紅茶を淹れてくださって……」
「春摘みのダージリンでしたよね。信田さまが『平穏』で『お金のトラブルがない』来世を迎えられるよう、心を込めて淹れました」
 マスターがにこやかに言い、「こちらこそ、その節は」と丁寧に腰を折った。
 信田が来世喫茶店で注文した紅茶というのは、『マスターのカウンセリングティー』だったのだと、初めて気づく。
「あれぇ?」と、アサくんが首をひねる。「ってことは、僕が接客したんですよね? どうして覚えてないんだろう?」
「アサくんは現世に行って、来店予定のお客様にチケットを配る業務をしていたんじゃないかな。信田さまがいらしたとき、店員は僕一人だったんだよ」
「そういうことでしたか! でも、亡くなる三日前にチケットを手渡ししたのは僕のはず……わわっ、信田さま、すみません! 一度お会いしているにもかかわらず、ちゃんとご挨拶(あいさつ)もできず! あああ、こんなに記憶力が悪いなんて、僕は店員失格ですっ!」
「そんなそんな。ここには一日に五十人以上が来店するんだろ? 直接カウンセリングをしてもらったわけでもないし、いちいち覚えてなくて当然だよ」
 信田が苦笑しながら、優しい言葉をかける。
 そんな彼の表情を見て、マスターがふっと口元を緩めた。
「ああ、よかった。あの日の信田さまは、店を出ていくその瞬間まで、現世に未練のありそうな顔をされていましたからね。カウンセリングですべての悲しみを取り払って差し上げられなかったことが、心残りだったんです。今日、無事に笑顔を見ることができて、ほっとしました」
「ありがとうございます。これもすべて、梨沙が相席カフェラテを頼んで、俺を指名してくれたおかげです」
 信田が再び梨沙を見下ろし、はにかんだように言った。
「もう、二度と会えないと思ってた。だからこそ、ここに呼び出されて驚いたんだ。“来世の条件”を話し合って決める大事な相談相手に、梨沙が裏切り者の俺を選ぶなんて、ありえない──って」
 あはは、と梨沙が声を上げて笑った。「それもそうだよね」と明るい顔で頷き、天井を見上げる。
「『長篠梨沙』として最後に会う相手に、自分を捨てた男を指名するなんて、正気の沙汰(さた)じゃないよね。でも、たぶん……道彦のことを、心のどこかで信じてたんだ。それくらい、大好きだったから。ずっと一緒に生きていきたいと思えた人だったから」
「俺は……二人の貯金をドブに捨てるような失敗をした挙句(あげく)、梨沙までも自殺に追い込んでしまった男なのに……」
「人生で一番愛した人と一緒に死ねるなら、本望だよ。道彦がロミオで、あたしがジュリエットってとこかな。ま、そんな柄じゃないけど!」
 梨沙が立ち上がり、照れ隠しのように、勢いよく信田に抱きついた。
 パチパチパチ、とアサくんが拍手を始める。未桜やマスター、他のテーブルのお客さんまでもが、その後に続いた。
 二人は長い間、固く抱き合っていた。