目の前の二人を、未桜は交互に見つめた。
 ──ちょっと……待ってよ。
 先ほどから、信田と梨沙の会話を聞くうち、次第に違和感を覚え始めていた。
 テーブルの上で揺れているキャンドル。
 すっかり日の落ちた窓の外。
 窓ガラスに映る、悲しそうに押し黙った信田の横顔──。
 その正体が分からず、カウンターを振り返る。
 マスターは、相変わらず穏やかな顔で、こちらを見ていた。
 すべてを見通している目だ。未桜が違和感を覚える前から、マスターはきっと、何もかもを察していたのだろう。
 その口元が、未桜にヒントを与えるかのように、小さく動く。
「ニュース……」
 マスターが呟いた単語を認識してから、未桜が最終的な答えに辿りつくまでは、数秒もかからなかった。
 頭の中でいろいろなものが繋がった途端、大きく目を見開き、テーブルの二人のほうへと急いで向き直る。
「あのっ、すみませんっ!」
 梨沙と信田が、驚いた顔でこちらを振り返った。
 二人を見下ろし、未桜は深く息を吸った。
 そして、ぽかんとした顔をしている信田に、ゆっくりと一歩近づいた。
「信田さん。あなたは今、ものすごく大きな秘密を抱えていますよね。長篠さまのためにも、正直に打ち明けたほうがいいと思います」
 そう言うと、案の定、信田がはっとした顔をした。彼の表情の意味がつかめないのか、梨沙が無言で眉を寄せる。
 数秒の間をおいて、未桜は目の前の色白な男性へと、決定的な質問を投げかけた。
「信田さんは──今、信田(、、)さん(、、)と(、)して(、、)生きて(、、、)います(、、、)か(、)?」
「……どういうこと?」
 声を上げたのは、信田ではなく、梨沙だった。未桜は構わず、質問の続きを口にする。
「それとも、すでに、別(、)の(、)人物(、、)と(、)して(、、)生まれ変わって(、、、、、、、)います(、、、)か(、)?」
「は? ちょっと店員さん、何言ってんの? 生まれ変わるのは道彦じゃなくて、あたしでしょ──」
 未桜の言葉を訂正しようとした梨沙が、向かいに座る信田に目をやり、愕然とした表情をした。
 信田は肩を大きく震わせ、両手で顔を覆っていた。
 ガタン、と音が鳴る。
 梨沙が椅子を蹴倒し、勢いよく立ち上がった音だった。
「道彦……道彦も……もう、死んでるの?」
「……うん」
 手と手の隙間から絞り出すように、信田が答えた。
「今から半年前に、死んだよ。だから今はもう、信田道彦じゃないんだ。まったくの別人として、新しい人生を歩み始めてる」
「半年前って……嘘でしょ……あたしの前からいなくなった……」
 梨沙が途切れ途切れに言葉をこぼす。そのまま声が小さくなり、聞こえなくなった。
 やがて、信田が両手をテーブルの上に重ね、再び未桜を見上げてきた。
「やっぱり、分かるんですか。ここの店員さんたちは」
 一目見ただけでお客さんの正体を判別できるのか、ということだろう。
謎めいているマスターにはそういう能力があるのかもしれないけれど、少なくとも未桜にはない。さっきから「えっ! えっ?」と後ろで甲高い声を上げているアサくんも、たぶん同様だ。
未桜が「いいえ」と首を横に振ると、信田が意外そうな顔をした。「じゃあ、どうして」と、彼の口から疑問がこぼれる。
「ちょっと変だなと最初に思ったのは、相席カフェラテで呼び出された信田さんが、このテーブルに現れたときのことでした」
「ああ……」
 観念したように、信田が声を漏らした。
 あのとき彼は、目の前に座っている梨沙を見て驚愕の表情を浮かべ、さらに窓にくっきりと映った自分たちの姿を凝視し、息を呑んだ。
 いったん梨沙を視認したにもかかわらず、彼はなぜ、窓に映った光景を見て再び驚いたのか。
 それは、久しぶりに見たからだ。
 色白で気弱そうな、三十代前半くらいの男性──自分がかつて、信田道彦だった(、、、)頃(、)の顔を。
 あのときマスターは、信田と梨沙のカップルを意味ありげに眺めていた。そのことについて未桜が尋ねると、やや気まずそうにして、言葉を濁した。
 マスターは気づいていたのだ。お客さんの事情を見抜く特別な力があるのか、信田の不審な動作を見ていち早く事を察したのかは分からないけれど、あの時点ですでに。
「ここに現れたときも、私と長篠さまがバックヤードから戻ってきたときも、信田さんは窓に映ったご自身の姿を見て、呆然(ぼうぜん)としていましたよね」
「……気づかれてた、か」
「長篠さまとの会話の内容も、ところどころ不自然でした。『大した人間じゃなかった(、、、、)』とか、『周りの意見に流されてばかりだった(、、、)』とか。今の自分のことを語っているはずなのに、全部過去形になっていて」
 立ち尽くしている梨沙が、「……嘘」とまた呟いた。恋人の信田が自分より半年早く死んでいたという事実を、簡単には受け入れられないようだった。
 そんな梨沙へと向き直り、未桜は言葉を続けた。
「信田さんにメッセージを送っても、未読スルーされたと言っていましたよね。でも、わざと無視したわけではなかったとしたら? 亡くなった人にいくらメッセージを送っても、既読になることはありません。相手がすでに亡くなったという事実を知らなければ、ブロックや未読スルーと同じ状態になってしまいます。電話を折り返すことだってできません」
「いや、それはそうだけど……道彦は、あたしの貯金を持ち逃げしたんだよ? それって、どちらにしろ、意図的にあたしから逃げたってことじゃん」
「そうとも限らないと思います。心配になって信田さんのアパートを見にいったとき、郵便物やチラシがポストからあふれてたんですよね? 計画的に引っ越したなら、郵便物は転送の手続きをするはずだし、ポストは普通、大家さんがテープを貼って封鎖するはず。それがされていなかったということは──」
「何? 家の中で突然死? それともあたしみたいに自殺したの? 交通事故とかなら、さすがにニュースで名前が流れるもんね。……っていうか、仮にそうだとしても、お金の件が全然解決してないんだけど!」
 梨沙が憤然と言い放った。「結局、あたしを騙して金を盗んだのは事実でしょ? その後で急死したなら自業自得だよ!」と口から唾を飛ばす梨沙を、未桜はじっと見つめる。
「長篠さまは、さっき、こう言ってましたよね。自分の手元に残されたのは、信田さんのレシピノートだけだった、って。あまりに虚しくて、それを破り捨ててやったって」
「それがどうしたの?」
「信田さんは、調理師だったんですよね? オリジナルのレシピというのは、料理人の武器であり、宝物です。これから恋人のお金を持ち逃げしようとするときに、いくらなんでもそんな大切なものを、長篠さまのアパートに残していくでしょうか?」
「別に全然、大切じゃなかったのかもよ。自分の店を持ちたいって夢は嘘だったのかもしれないし。どうぞ勝手に処分してください、とでも思ってたんでしょ」
「手書きで、ぎっしり書き溜めてあったのに?」
「それは……」
 梨沙が言い淀(よど)む。ちらりと信田に目を向け、床に視線を落とした。二人で一軒家レストランを開くことを夢見ていた楽しい日々を、一瞬でも思い出してしまったのかもしれない。
「信田さんが長篠さまの前から姿を消したのは、三年記念日の直前だったんですよね?」
「そうだよ。よりによってそんなタイミングでさ。ひどい話──」
「いいえっ! ひどい話なんかじゃありません!」
 未桜の勢いに押され、梨沙が目をぱちくりと瞬く。
 推測は、もはや確信に変わっていた。
改めて、深く息を吸う。
そして、自信を持って、梨沙に語りかけた。
「信田さんは、ちゃんと戻ってくるつもりだったんですよ。でも、まったく望んでいないにもかかわらず、不幸にも命を落とすことになった。その理由は、たぶん……信田さんは、長篠さまに──」
「──自分で話します!」
 未桜の言葉を遮ったのは、信田だった。
椅子から立ち上がり、肩を上下させている。
「いえ……話させてください。梨沙に本当のことを伝えるなら……ここから先は、自分の口で」
「わ、分かりました!」
 未桜はぺこりと頭を下げ、テーブルから二歩ほど離れた。