タイミングを見計らったかのように、「すみませーん!」という梨沙の声がした。
ほらね、というように、マスターがテーブル席の方向を指し示す。まるで、こうなることを最初から知っていたかのような、落ち着いた仕草だった。
自分もマスターから頼られたかったのか、ほんの少しむくれているアサくんのそばを通り抜け、カウンターから出る。梨沙と信田が腰かけている角のテーブル席に向かうと、梨沙が力なく片手を上げた。
「お水のおかわり、もらっていい? 喋りすぎて、喉がカラカラになっちゃった」
「あ、分かりました! すぐにお持ちしますね」
「もう死んでるはずなのに、こういう生理現象は、きっちり起こるんだね」
梨沙が苦笑いすると、アサくんがカウンターから顔をひょこりと出し、「現世から来たお客様が、“この世”と“あの世”のギャップにびっくりしないよう、環境はできるだけ似せてあるんです! だから喉が渇くんですよ」と胸を張ってみせた。「お、物知り少年だね」と梨沙に茶化(ちゃか)され、破顔(はがん)する。お客さんの役に立つところを見せようと、新人店員の未桜にいちいち張り合ってくるのが、何とも可愛らしい。
カウンター内に引き返し、グラスに水を汲んだ。念のため、「水を飲みすぎて、ドリンクの効能が薄まるってことはないですよね?」とマスターに尋ねると、「ないよ。ご安心を」という可笑しそうな答えが返ってきた。
新しいグラスを梨沙のところへと持っていく。テーブルに置くと、梨沙は冷たい水を一気に飲み干した。
「……ふう」
そして諦めたように、軽いため息をつく。二人の表情を見る限り、状況は変わっていないようだった。梨沙の目尻には、きらりと涙が光っている。
「本当に、何も話してくれないんだね」
半分責めるように、半分悲しむように、梨沙が呟いた。
「さっきも言ったけどさ。あたしにとって道彦は、おばあさんになるまで生きても二度と出会えないと思えるくらい、カッコよくて誠実な──誠実そうな男だったんだよ」
「俺はそんな、大した人間じゃなかったと思うよ……梨沙が特殊な環境で育ってきたから、周りにこういう普通の男がいなかったってだけで」
信田がか細い声で言う。「いや、普通以下か」と、彼はやけに自分を卑下する口調で続けた。
「気が弱くて、よくいじめられてたし。いろんなことを自分で決められなくて、周りの意見に流されてばかりだったし」
「同級生にいじめられてたのは昔の話でしょ? そいつらとは二年くらい前にばったり再会して、飲みに誘われる仲になったって言ってたじゃん。子どもの頃のことは関係ないよ。今も優柔不断(ゆうじゅうふだん)なところはあるけど、それは優しさや真面目さの裏返しだし──」
「いや、全部思い違いだったのかもしれない。所詮、俺みたいな奴が真っ当に、対等に人と付き合うなんて、無理な話だったんだ」
「は? どうしてそんなこと言うの? 他の人は知らないけどさ、私とは楽しく付き合えてるんじゃなかったの? 三年も一緒にいたのに、関係を否定するようなこと言わないでよ!」
梨沙の涙声が、にわかに大きくなった。それでも、店に迷惑をかけないという約束は覚えているらしく、ぶるぶると全身を震わせ、声のトーンを抑えようと努力している。
「道彦が自分自身のことをどう思ってるかなんて、知らないよ。どうでもいいよ! そんなあんたでも、あたしにとっては唯一無二の男だったんだよ。ずっと隣にいてほしかった、将来を真剣に考えた相手だったんだよ! 最初から結婚詐欺のつもりだったんなら、そう言ってよ。そうじゃないなら、金を持って逃げた理由を教えてよ。それだけ聞いたら、それ以上文句は言わずに、さっさと別人に生まれ変わるからさぁ!」
耳を塞ぎたくなるほど、悲痛な声だった。
それなのに、信田道彦は何も答えず、テーブルの上のグラスを眺めている。
ほらね、というように、マスターがテーブル席の方向を指し示す。まるで、こうなることを最初から知っていたかのような、落ち着いた仕草だった。
自分もマスターから頼られたかったのか、ほんの少しむくれているアサくんのそばを通り抜け、カウンターから出る。梨沙と信田が腰かけている角のテーブル席に向かうと、梨沙が力なく片手を上げた。
「お水のおかわり、もらっていい? 喋りすぎて、喉がカラカラになっちゃった」
「あ、分かりました! すぐにお持ちしますね」
「もう死んでるはずなのに、こういう生理現象は、きっちり起こるんだね」
梨沙が苦笑いすると、アサくんがカウンターから顔をひょこりと出し、「現世から来たお客様が、“この世”と“あの世”のギャップにびっくりしないよう、環境はできるだけ似せてあるんです! だから喉が渇くんですよ」と胸を張ってみせた。「お、物知り少年だね」と梨沙に茶化(ちゃか)され、破顔(はがん)する。お客さんの役に立つところを見せようと、新人店員の未桜にいちいち張り合ってくるのが、何とも可愛らしい。
カウンター内に引き返し、グラスに水を汲んだ。念のため、「水を飲みすぎて、ドリンクの効能が薄まるってことはないですよね?」とマスターに尋ねると、「ないよ。ご安心を」という可笑しそうな答えが返ってきた。
新しいグラスを梨沙のところへと持っていく。テーブルに置くと、梨沙は冷たい水を一気に飲み干した。
「……ふう」
そして諦めたように、軽いため息をつく。二人の表情を見る限り、状況は変わっていないようだった。梨沙の目尻には、きらりと涙が光っている。
「本当に、何も話してくれないんだね」
半分責めるように、半分悲しむように、梨沙が呟いた。
「さっきも言ったけどさ。あたしにとって道彦は、おばあさんになるまで生きても二度と出会えないと思えるくらい、カッコよくて誠実な──誠実そうな男だったんだよ」
「俺はそんな、大した人間じゃなかったと思うよ……梨沙が特殊な環境で育ってきたから、周りにこういう普通の男がいなかったってだけで」
信田がか細い声で言う。「いや、普通以下か」と、彼はやけに自分を卑下する口調で続けた。
「気が弱くて、よくいじめられてたし。いろんなことを自分で決められなくて、周りの意見に流されてばかりだったし」
「同級生にいじめられてたのは昔の話でしょ? そいつらとは二年くらい前にばったり再会して、飲みに誘われる仲になったって言ってたじゃん。子どもの頃のことは関係ないよ。今も優柔不断(ゆうじゅうふだん)なところはあるけど、それは優しさや真面目さの裏返しだし──」
「いや、全部思い違いだったのかもしれない。所詮、俺みたいな奴が真っ当に、対等に人と付き合うなんて、無理な話だったんだ」
「は? どうしてそんなこと言うの? 他の人は知らないけどさ、私とは楽しく付き合えてるんじゃなかったの? 三年も一緒にいたのに、関係を否定するようなこと言わないでよ!」
梨沙の涙声が、にわかに大きくなった。それでも、店に迷惑をかけないという約束は覚えているらしく、ぶるぶると全身を震わせ、声のトーンを抑えようと努力している。
「道彦が自分自身のことをどう思ってるかなんて、知らないよ。どうでもいいよ! そんなあんたでも、あたしにとっては唯一無二の男だったんだよ。ずっと隣にいてほしかった、将来を真剣に考えた相手だったんだよ! 最初から結婚詐欺のつもりだったんなら、そう言ってよ。そうじゃないなら、金を持って逃げた理由を教えてよ。それだけ聞いたら、それ以上文句は言わずに、さっさと別人に生まれ変わるからさぁ!」
耳を塞ぎたくなるほど、悲痛な声だった。
それなのに、信田道彦は何も答えず、テーブルの上のグラスを眺めている。