『――次のニュースです。千葉市の病院が、医療ミスにより患者の男性が死亡したと発表しました。心臓の手術中に使用した器具を、体内に残したまま――』
 いつの間にか、店内にラジオの音声が流れている。隣のテーブルで向かい合っているマスターとアサくんが、パスタを食べながらじっと耳を傾けている様子を見るに、食事中にラジオをつけるのは二人の習慣のようだ。
 集中を妨げてはいけないと、未桜も静かにパスタを口に運んだ。しばらく聴いているうちに、アナウンサーが読み上げているのがローカルニュースばかりだと気づく。
『――千葉県内で犯行を繰り返していた詐欺グループが摘発されました。架空の土地や建物を個人に売り、多額の金銭を得ていたとして――』
 どうしても気になって、マスターの端正(たんせい)な横顔を盗み見る。すると彼がこちらに目を向け、「あれ、もうお腹いっぱい?」と尋ねてきた。
「あ、いえ! まだまだ食べますよっ!」
「よかった。三人分とはいえ、作りすぎたんじゃないかと心配してたんだ」
 言われてみれば、確かに量は多めだ。でも、それがまったく気にならないくらい、味に飽きがこない。
 食べ進めるうちに、レモンが香るクリームとともに、未桜自身がとろけそうになる。好きな人が作ってくれた料理なんて、ただでさえ美味しいに決まっているのに、これはもう反則だ。
「あの……ちょっと、質問してもいいですか? さっきから、二人ともラジオを聴いてるみたいですけど……ここは死んだ後の世界なのに、現世のニュースを知る意味があるんですか?」
 いったんフォークを置いて、遠慮(えんりょ)がちに訊いてみた。
 だって、全然しっくりこないのだ。――この不思議でレトロな喫茶店と、堅苦しくて現実的なニュースの組み合わせが。
「確かに、すべての来世喫茶店の従業員が、こうやって現代の出来事を勉強してるわけじゃありません。これは、日本三十号店というか、マスターがはるか昔から掲げている経営方針なんですよ。ねっ?」
 アサくんが同意を求めると、マスターは顎(あご)をするりと撫で、「そうだね」と頷いた。
「ここにやってくるお客様が生きてきた現代の世界を、僕たちは自ら体験していないから。情報を積極的に集めて、頭に入れておかないと、すぐに時代に置いてかれるんだ。特に、この日本三十号店に来る人たちが多い地域のニュースは、しっかりチェックするようにしてるよ」
「それは、えっと……お客様のことを、正しく理解するために?」
「うん。『マスターのカウンセリングティー』なんていうドリンクをお出ししておいて、ろくな助言もできないようじゃ、お客様の期待を裏切ってしまうからね。自分の直感や古い固定観念にとらわれていては、仕事にならないんだ」
 マスターはパスタをフォークに巻きつけながら、「お客様を来世に送り出す役目を任された者として、最低限の責任は果たさないと」と付け加えた。
 有能さと真面目さが見え隠れする受け答えに、また顔がぽっと熱くなる。
アサくんと目が合い、未桜は慌てて下を向いた。
不審(ふしん)な態度になっていなかっただろうか。すぐに目を伏せるのではなく、平然と、さりげなく目を逸らしたほうがよかったのではないか。これに関しては、一応年齢が十一歳だという彼の、察しの悪さに期待するしかない──。
「あれ、未桜さん、どうかした? やっぱり口に合わなかったかな。僕には気を使わず、遠慮なく残してくれていいんだよ」
 心配そうに話しかけてきたのは、アサくんではなくマスターのほうだった。不覚にも、フォークを取り落としそうになる。
「そ、そ、そんなことないです! めちゃくちゃ美味しかったです!」
 早口で答え、レモンクリームパスタの最後の一口を口に放り込んだ。空っぽになったお皿に目を落とし、最後まで味わって食べればよかった、もったいない――としょげ返る。
「あはは、今度は急ぎすぎ」
「ま、まっめ、おいひかっぱかま……」
「落ち着いて、落ち着いて。パスタも僕も、逃げたりしないから」
マスターが目を細め、くしゃりと笑った。年下の未桜を包み込む大人らしい言葉と、少年に返ったような表情。魅力だらけの二面性に、全身の体温がまた上昇する。
 好きな人の視線が、まっすぐに自分に注がれている。その状況に耐えきれなくなり、未桜はお皿を持って立ち上がった。
「ごっ、ごちそうさまでしたっ! お皿、洗ってきますね!」
 空っぽになったお皿とフォークを持って、急ぎ足でカウンターに向かおうとした瞬間、テーブルの脚につまずき、身体がふわりと浮いた。
 ──あっ!
 お皿を抱え込み、目をつむる。床に激突する、と思いきや、温かくてがっしりとした腕に抱き止められた。
「──未桜さん、大丈夫?」
 気がつくと、目の前にマスターの顔があった。陶器のように滑らかな頬が、少し手を動かせば触れられそうなほど近くにある。
 一瞬、見つめてしまった。
このままずっと、腕の中にいたい──。
「わっ、あのっ、ごめんなさいっ!」
 マスターに支えられて立ち上がるや否や、全身の血液が沸騰して、未桜は思わず両手で顔を覆おうとした。けれど、パスタ皿をしっかりと抱えているものだから、赤くなった顔を隠せない。
 未桜の動揺を察したのか、マスターがはっとした様子で言った。
「あ、こちらこそごめん。反射的に手を伸ばしてしまったんだけど……男の人に触れられるの、嫌だった?」
「違うんです。嫌じゃないんですけど、その、何というか」
「──免疫がない?」
「そう! それです!」
 未桜がピンと指を伸ばしたのを見て、マスターは一転して朗らかに笑った。
「恋愛未経験、って言ってたもんね。いろいろと頼もしい未桜さんにも、弱点はあるというわけか」
「じゃ、弱点って……」
 絶対、からかわれている。
 恥ずかしすぎてその場にはいられず、未桜はマスターとアサくんが食べ終わったお皿も超特急で下げ、カウンター内の流しで洗うことにした。
転倒して迷惑をかけたことに対する、せめてもの罪滅ぼしだ。――って、バイトをさせてもらっているのだから、当たり前のことなのだけれど。