「まったく期待していなかったが、案外、サービス満点の喫茶店だったな。世話になった」
 メモリーブレンドの最後の一口を飲み干した緒林が、名残(なごり)惜しそうに席を立った。
 思い出の指輪を白いお守り袋の中に戻し、長い紐を首にかける。セーターの中にお守りをしまい、布の上から大事そうに手を当てた。
「来世に行くのだって、ある意味“旅”だよな。最後まで、よろしく頼むぞ」
 胸元のターコイズに語りかけ、片手を上げて店を出ていく。
 その背に向かって、「いってらっしゃいませ」と声をかけ、深々とお辞儀をした。
 チリンチリンと鈴が鳴り、扉が閉まる。
「……驚きました」
 しばらくして、アサくんが放心したように呟いた。
「記憶の中で見たあの指輪が、交通安全のお守りの中に……。八重樫さん、よく見抜きましたね」
「お母さんの誕生日が十二月じゃなかったら、最後まで分からなかったかもしれないけどね。それに──」
 アサくんに向かって答えつつ、カウンター内のマスターを見上げる。
「──マスターは、私なんかより早く、真相に辿りついてたんですよね?」
「まあ、ね」
 マスターが手元に目を落とす。その返事を聞いて、「えっ、そうだったんですか⁉」とアサくんが目を丸くした。
 やっぱり、あの独り言はヒントだったのだ。「開けようにも、開けられない」というのは、三十年以上にわたってお守りの中身を決して見ようとしなかった、信心深い緒林の性格を指していたのだろう。マスターは、未桜が真相に気づくよりも先に、思い出の指輪のありかを察していた。
「バイトの私が、このお店のマスターを差し置いて、あんなふうに出しゃばってよかったんでしょうか……いえ、いいわけがありませんよね! このたびは、どうもすみませんでした!」
 ぎゅっと目をつむり、勢いよく頭を下げる。自分だけが本当のことに気づいていたならともかく、そうでないのに先陣を切って立ち回ってしまったことが、今考えるとどうしようもなく恥ずかしかった。
 あはは、という朗(ほが)らかな笑い声が、頭上から聞こえた。驚いて顔を上げると、可笑しそうに口元を緩めているマスターと目が合った。
「いやあ、八重樫さんの押しの強さは一級品だ。アサくんにクレームをつけてこの店に乗り込んできたことといい、お客様の記憶をちゃっかり一緒に再体験させてもらって、人生の謎を見事に解き明かしたことといい」
「おっ、押しの強さって……」
「そうですよね⁉ 僕も思ったんですよ!」
 アサくんが口を尖らせ、両手をパタパタと上下に振る。
 なんだか、変だ。
アサくんに言われても気にならないのに、同じことをマスターに指摘されると、なぜだか凹む。
「ごめんなさい……やっぱり、出しゃばりすぎましたよね……緒林さまに本当のことを伝えるのも、全部マスターにお任せすればよかったのに……」
「念のため断っておくけど、褒め言葉だよ? 八重樫さんが天真爛漫(てんしんらんまん)にお客様のご事情を訊き出して、明るく丁寧な接客を通じて信頼されなければ、人生の謎を解く鍵が見つかることもなかったわけだから。お客様の心が救われたのは、他でもない、八重樫さんのおかげさ」
 ふわりと、胸の奥が浮き上がる。じんわりとした痺(しび)れが、身体中に広がっていく。
 ――おかしい、な。
 十歳近く年上の男性なんて、恋愛対象として意識したことがなかったのに。
 普通の片想いですら、数えるほどしかしたことがないのに。
 ましてや一目惚れなんて、生まれてこの方、一度もしたことがなかったのに。
 ――どうしよう。
 現世でも、来世でもない世界で、私は――。
「おーい、未桜さん」
 未桜の眼前で、マスターが手を左右に振っている。我に返ると同時に、さりげなく下の名前で呼ばれたことに気づき、胸の鼓動が二倍速になった。
「赤くなって、どうしたの? いつまでも苗字(みょうじ)じゃ堅苦しいから、アサくん同様、下の名前で呼ぼうかと思ったんだけど……やめておく?」
「い、いいえ! みっ、み、未桜でお願いします!」
 未桜が額に汗をにじませ、やっとの思いで言葉を返すと、マスターは愉快(ゆかい)そうな笑みを浮かべた。
「下の名前で呼ばれただけで取り乱すなんて、ずいぶんと可愛らしいところがあるんだね」
「か、可愛……⁉」
「改めて、来世喫茶店へようこそ。今の一件で、とてもよく分かったよ。未桜さんは、この店に必要な戦力だ」
 大人の余裕を携(たずさ)えたマスターが、カウンターの上から手を差し出してくる。
「ぜひ、しばらくここにいて、ここに来る“向かう人”たちを接客してほしいな。もちろん、時間が許す限りで構わないから」
 数秒経って、未桜はようやく平静を取り戻した。おずおずと手を伸ばし、マスターと握手をする。
 彼の手は、ちゃんと温かかった。大きくて、意外にがっしりとしている、大人の男性の手だ。
「こちらこそ、よろしくお願いします。精一杯――頑張ります!」
 胸の高鳴りが抑えきれなくなり、指先にマスターの温もりを感じたまま、ぱっと目を逸らした。
 窓の外には、まだ白いものが舞っていた。
雪景色の中で、空を見上げて寄り添う若い男女の後ろ姿が、ぼうっと窓に映る。
そして、すぐに消えた。