カウンター内に戻ると、アサくんが声を潜めて話しかけてきた。
「いやあ……八重樫さん……想像以上にすごいですね」
「すごい、って?」
「ためらいもなく、お客様のご事情にズバズバ切り込んでいって……マスターが黙認(もくにん)しているから何も言えませんが、もし僕が店長だったら、厳重注意しますよ」
「え? ひどくない? アサくんが店長だったら、私はクビってこと?」
「クビとまでは言ってないじゃないですか!」
 そんな未桜たちの会話が、マスターにも聞こえていたらしい。本日のスイーツの追加分を作っているのか、果物ナイフでりんごの皮を剥(む)き始めたマスターの目が、優しい三日月形になっていた。
 美しい横顔だ。
滑らかな肌、すっと通った鼻筋、物静かな黒い瞳。
 未桜の心臓が、ドクン、と鳴った。
 ――あれ、どうしてだろう。
 自分の心の動きに驚く。
 ――気のせいだよね? だって、さっき会ったばっかりなのに……。
 ふと、マスターの薄いピンク色の唇が、小さく動いた。
「……開けようにも、開けられないから……」
「え?」
 よく聞こえず、訊き返す。けれど、マスターはりんごに視線を落としたまま、無言で首を横に振った。
 何だろう。独り言のつもり、だったのだろうか。
「おい、姉ちゃん、どこ行った」
 緒林の声が聞こえ、未桜は慌ててカウンターから顔を出した。
 カップに残っているメモリーブレンドは、早くも残り一口になっていた。未桜の視線を気にしたのか、「もっとゆっくり飲めばよかったんだろうがな」と緒林が気恥ずかしそうに頭を掻く。
「さっき、このコーヒーを飲み干したら、来世でも同じような出来事が起こるって言ってたよな?」
「あ、はい!」
 そう答えながら後ろを振り返ると、アサくんが不満げな顔で腕組みをしていた。「それを説明したのは僕なのに……」と、緒林に聞こえないように呟いている。
「っつうこたぁ、この場合、来世では何が起こるんだ?」
「ええっと、心から愛する女性にプロポーズをして、受け入れてもらえるんだと思います。……あ、そうですよね?」
 念のため、マスターとアサくんの顔を交互に見る。未桜の回答は正しかったらしく、二人とも小さく頷いた。
 はっ、と緒林が自嘲気味に鼻を鳴らす。
「今思えば、もっと望むべきことが他にあった気がするな。愛する女と結婚できたとしても、その後夫婦仲が悪くなるんじゃ意味がねえ。マスターのカウンセリングティーとかいうやつを選んで、健康だとか交通安全だとか、そういうのを来世で保証してもらったほうがよかったか。もう、変えられねえのか?」
「すみません。一度口をつけてしまったら、ドリンクはもう……」
「だよな」
 緒林が寂しげに目を伏せ、カップの中の茶褐色の液体を見つめた。
「俺は、つくづくバカな男だよ。どうせ、来世でも同じ失敗を繰り返すんだ。高嶺(たかね)の花に惹かれて、身の程もわきまえずに結婚を申し込んで、そのときの思い出だけに縋りついて一生を終えるんだ。ああ、早くまた死んで、やり直してえな。でもどうせ俺はまた、そこでも失敗を――」
 やぶれかぶれに言い捨て、残りのメモリーブレンドを飲み干そうとする。
 そんな緒林を前に、未桜はふと、頭の中で引っかかりを覚えた。
 先ほどのマスターの独り言が、耳に蘇(よみがえ)る。
 ──開けようにも、開けられないから。
 脳裏に、雪がちらついた。
 年の瀬が近い冬の日。
 白いコートを着た女性の、幸福そうな笑顔。
 青緑色の美しい石が煌(きら)めく、無骨な指輪。
 手作りの品に込められた、相手への深い思い――。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 未桜の大声にびくりと肩を震わせ、緒林が顔を上げた。カップを持ったまま静止している老人に、そのまま話しかけようとしたけれど、背の高いカウンターが邪魔になる。隣で驚いているアサくんの手を取り、未桜はカウンターの外へと走り出た。
「わ、わ、わ、八重樫さん、いったい何のつもりですかっ!」
「緒林さま、聞いてください。やっぱり、靖子さんは、死ぬまでずっと、緒林さまのことを愛していたんですよ!」
 アサくんの手を離し、椅子に座っている緒林に向かって、勢いよく語りかける。
 緒林は一瞬、虚を突かれた顔をした。けれどすぐに、眉間にしわを寄せる。
「なんも知らねえくせに、無責任なことを言うな」
「プロポーズの日は、お相手の誕生日だったんですよね? つまり、靖子さんは十二月生まれ。そうですよね?」
 未桜の突然の質問に、緒林の灰色がかった瞳が揺れた。
「そのとおりだが……それがどうした」
「ということは、再体験した記憶の中で見た、あの青緑色の綺麗な石は――ターコイズですね」
「……ターコイズ?」
「別名、トルコ石。十二月の誕生石です」
 数秒の間ののち、「ああ、そうだ。トルコ石。よく分かったな」と緒林が不思議そうに頷いた。
 ――やっぱり、そうだ。
 未桜はハーフアップにした髪に手をやった。根元に結んでいたリボンをほどき、掌にのせる。
 青みがかった、緑色。未桜のお気に入りの色だ。
「私のお母さんの誕生日が、十二月なんです。親子そろってパワーストーンが好きなので、トルコ石のブレスレッドとか、同じ色のアクセサリーとか、いろいろ家にあったんですよ。この髪(かみ)留(ど)めのリボンも、もともとはお母さんのものです」
「物好きだな、女は」
 ふと視線を感じ、未桜は顔を横に向けた。
 マスターが、口元にわずかな微笑みを浮かべて、こちらを眺めている。
 その黒い瞳を見返しただけで分かった。マスターは、未桜が今から緒林に何を伝えようとしているのかを知っている。
背中を押すように、マスターが一つ頷いた。
――私に、任せてくれたんだ。
未桜は胸をドキドキさせながら、緒林のほうへと向き直った。
「ちょっと、失礼しますね」
 カウンターに置かれていた、交通安全のお守りを手に取る。白い巾着型のそれを、隣でぽかんとしているアサくんの眼前に突きつけた。
「ねえアサくん。一般的に、お守りの中には何が入ってるか、知ってる?」
「ええっ、クイズですか? な……何だろう?」
「私ね、小さい頃に、どうしても気になって、ハサミで開けちゃったことがあるの。中身はね、ただの小さい板切れだった。お札(ふだ)みたいな感じで、神様の名前なんかが書いてあるんだよね」
「おいおい姉ちゃん、それは罰当たりだな」緒林が思い切り顔をしかめた。「お守りの中身はなぁ、見ないからこそ御利益(ごりやく)があるんだぞ」
 すみません、と緒林に向かって頭を下げる。
 そして、ゆっくりと、質問を投げかけた。
「このお守り、表に『交通安全』、裏に『御守』って書いてありますけど、神社の名前がどこにもないですよね。どちらで購入されたものなんでしょう?」
「うん? ああ、そういえば……どこの神社だろう」
「靖子さんは、料理も裁縫もプロ並みに上手い、立派な主婦だったんですよね。だとすると、このお守りって――もしかして、手作り(、、、)だったん(、、、、)じゃ(、、)ない(、、)です(、、)か(、)?」
 未桜はそう言うなり、巾着型のお守りの口を、ぐいと引っ張った。
 この三十年の間に紐が緩んでいたのか、思いのほか簡単に開く。
 お守りの袋を逆さにし、未桜の掌に転がり出たものを目にした瞬間、緒林が両目を大きく見開いた。
「嘘……だろ」
 愕然とした表情で、それ(、、)を見つめる。
 お守りから出てきたのは、綿にくるまれた指輪だった。
 大きな青緑色の石がついた、無骨な指輪――。
「十二月の誕生石であるターコイズは、もともと、旅の護(まも)り石なんです。持ち主が危機に遭いそうになると身代わりになってくれる、守護の力が強い石として、昔から旅のお供によく持ち歩かれていました。現代では、交通安全のお守りとして重宝されています」
「トルコ石が……交通安全の……?」
「靖子さんは、大切に保管していたこの石をお守りの形にして、自分よりずっと長い時を一人で生きていくことになる緒林さまに託したんです。夫には、健康でいてほしかったから。夫が何日もかけて、自分のために一生懸命作ってくれたこの指輪には、それだけの効果があると信じていたから」
 未桜は緒林の手を取り、指輪をそっとのせた。
 緒林が震える指を丸め、五十七年前の自分が作ったプロポーズの記念品を握りしめる。
「よかったですね。お二人にとって人生で最も大切な思い出だったはずのこの石は、いつも緒林さまに一番近いところで、緒林さまのことをしっかりと守っていたんですよ」
「……靖子!」
 もう片方の手を、指輪を握る手にかぶせ、緒林はこらえきれずに俯いた。
 老人の肩が揺れ、涙がぽとりぽとりと、セーターの袖に落ちる。
 そんな緒林の姿を、未桜とアサくんとマスターとで、黙って見守る。
 三十年もの間、お守り袋に包まれていたターコイズは、緒林が再体験した記憶の中で見たものより、ずいぶんとくすんだ青緑色をしていた。
――まるで、持ち主を何度も危機から守り、身代わりとしての任務を全うしたかのように。