「それにしても、気の毒な話だ」
緒林が鼻の頭にしわを寄せ、アサくんのほうへと身を乗り出した。
「交通事故のせいで病院にぶち込まれて、そのままこの世とおさらばか。お前、俺と一緒だな」
「はい、一緒です。奇遇(きぐう)ですね!」
アサくんがにこやかに答える。死んだときの話をしているとは思えない。出身地か何かの話ではないかと錯覚してしまう。
強い仲間意識を覚えたのか、緒林がアサくんを手招きした。互いに顔を寄せ合い、半ば嬉しそうに、二人で会話し始める。
「お前、十一歳って言ったか」
「ええ」
「それにしちゃ、ずいぶんと利口そうじゃねえか」
「生きていれば二十一歳ですからね。自分ではよく分かりませんが、精神年齢は年々増えてるんじゃないかと」
「見た目は子ども、中身は大人ってわけか」
緒林がガハハと笑う。漫画で見たような話だな、と思うと同時に、はっとした。
アサくんは、もし生きていたら、未桜より三つも年上のはずだったのだ。それなのに、信号無視のトラックのせいで――。
「おい少年。お前、交通安全のお守りは、持たせてもらってなかったのか?」
「お守りですか? いえ、特には」
「持っていれば、助かったかもしれなかったのにな。あれはけっこう効くぞ」
「あれれ? 緒林さまって、案外、信心深いんですね」
「案外とは何だ、こんにゃろう」
緒林が相好を崩し、アサくんの脇腹を小突いた。ひゃあ、とアサくんの声が裏返る。
老人とは思えないほど、緒林の動作は敏捷(びんしょう)だ。ここでは、生前の体力や筋力の衰えは、なかったことになっているのかもしれない。
そんなことを考えながら緒林のことを観察していると、あることに気づいた。
「もしかして、それ、お守りですか?」
未桜は緒林に一歩近づき、首元を指差した。セーターの襟(えり)の上に、白い紐が見え隠れしている。
「お、ここにあったのか。肌身離さずつけてたから、あの世まで持ってきちまったんだな」
緒林が頬を緩ませ、よいしょ、と細い紐を引き出した。彼が首から下げていたのは、小さな巾着(きんちゃく)型のお守りだった。
緒林が、お守りを掌の上で転がす。白い布でできていて、表には『交通安全』、裏には『御守』という金色の文字が刺繍(ししゅう)してあった。巾着の口の部分には、小さな鈴がついている。
「半年前も、これを身に着けていれば、事故に遭わずに済んだかもしれなかったのによ。あのときは夜中だったから、もう寝間着に着替えてたんだ」
「ってことは、寝るとき以外は、肌身離さず持ち歩いてたんですか?」
「ああ。三十年以上も前からな」
緒林は遠い目をして、雪の降りしきる窓の外を眺めた。
「あれは、女房が死ぬ少し前のことだった。変な霊にでも憑(つ)かれたのか、俺が頻繁(ひんぱん)に交通事故に遭うようになったんだよ。乗っていたバスに後続車が突っ込んだり、横断歩道を渡っているときに右折してきたバイクと接触したりな」
「ええっ、危ない!」
「幸い、後遺症が残るような怪我はなかったんだが、何度も病院に通ったよ。若(わけ)え医者に、『お祓(はら)いでも行かれたらどうです?』なんて鼻で笑われたりしてな。あれは気分が悪かった」
緒林は一瞬眉を寄せたものの、気を取り直したように、白いお守りをそっと握った。
「だがな、お祓いなんて行かずとも、交通事故にはぴたりと遭わなくなったんだ」
「このお守りを……身に着けるようになったから?」
「ああ。ある日夜遅くに仕事を終えて家に帰ったら、夕飯の横に置いてあったんだ。『効き目があるらしいので、どうぞ身に着けてください』って書き置きとともにな」
思わず、うふふ、と声が漏れてしまった。「おい姉ちゃん、なぜ笑うんだ」と緒林が眉尻を上げる。
「だって、微笑ましいじゃないですか! 緒林さまのことを心配した奥さまが、神社に行ってお守りを買ってきてくれたってことですよね? やっぱり、一方通行の愛なんかじゃなかったんですよ。お二人の愛は、対面通行だったんです!」
「ちょっとちょっと、八重樫さん! 『対面通行』だと、なんだかすれ違ってるみたいに聞こえます」
「じゃあ何て言えばいいの? 正面衝突?」
「それだと喧嘩しちゃってます!」
「とにかく、愛想を尽かされたなんていうのは気のせいで、お二人は相思相愛だったんですよ! 夫のことが好きじゃなかったら、わざわざお守りを渡したりするはずがありません。よかったですね、緒林さま!」
アサくんにツッコミを入れられながらも、未桜は緒林の話から受けた印象を、余すところなく伝えた。
けれど、緒林は相変わらず頑固だった。「そんなわけはねえ」と仏頂面(ぶっちょうづら)で言い、首を左右に振る。
「どうせ、俺の医療費がかさんで生活を圧迫するから、仕方なく用意しただけだろ。その頃には、女房の病気もすでに分かってたしな。お守り一つで厄除(やくよ)けできて、一家の大黒柱がしょっちゅう怪我をしなくなるなら、安いもんだ」
「そんなことな――」
「俺はあいつにとって、わがままで、浪費家で、そのくせ稼ぎも悪くて……誰にも自慢できない、甲斐性なしの亭主だったのさ。俺が先に死ねば、あいつも羽を伸ばせただろうにな。俺より三十年も早く、五十で逝くなんて、さぞ心残りも多かったろう」
緒林はそう吐き捨て、天井を見上げた。
「……来世か。元気でやってるといいんだがな。今度こそ……長生きしろよ」
その言葉に、胸を締めつけられる。
――緒林靖子さん、聞こえていますか。
いや、もうその名前ではないのだろうけれど。
前世のことはすべて忘れて、どこかに生まれ変わっているのだろうけれど。
――靖子さんの気持ちがどうだったかは、正直、分かりません。でも、不器用で頑固なご主人がこれほど妻を愛していたということを、あなたは知っていましたか?
緒林がソーサーからカップを取り上げた。半分ほど残っているメモリーブレンドを、もう一口飲む。
その瞬間に、緒林の表情が柔らかくなった。今は身体に触れていないから、どんな光景を見ているのかは分からないけれど、靖子さんとの思い出の続きを再体験しているのだろう。
アサくんにブラウスの袖を引っ張られ、そっとその場から離れた。
来世に“向かう”前の、大切な儀式(ぎしき)を、邪魔(じゃま)してはいけない。
緒林が鼻の頭にしわを寄せ、アサくんのほうへと身を乗り出した。
「交通事故のせいで病院にぶち込まれて、そのままこの世とおさらばか。お前、俺と一緒だな」
「はい、一緒です。奇遇(きぐう)ですね!」
アサくんがにこやかに答える。死んだときの話をしているとは思えない。出身地か何かの話ではないかと錯覚してしまう。
強い仲間意識を覚えたのか、緒林がアサくんを手招きした。互いに顔を寄せ合い、半ば嬉しそうに、二人で会話し始める。
「お前、十一歳って言ったか」
「ええ」
「それにしちゃ、ずいぶんと利口そうじゃねえか」
「生きていれば二十一歳ですからね。自分ではよく分かりませんが、精神年齢は年々増えてるんじゃないかと」
「見た目は子ども、中身は大人ってわけか」
緒林がガハハと笑う。漫画で見たような話だな、と思うと同時に、はっとした。
アサくんは、もし生きていたら、未桜より三つも年上のはずだったのだ。それなのに、信号無視のトラックのせいで――。
「おい少年。お前、交通安全のお守りは、持たせてもらってなかったのか?」
「お守りですか? いえ、特には」
「持っていれば、助かったかもしれなかったのにな。あれはけっこう効くぞ」
「あれれ? 緒林さまって、案外、信心深いんですね」
「案外とは何だ、こんにゃろう」
緒林が相好を崩し、アサくんの脇腹を小突いた。ひゃあ、とアサくんの声が裏返る。
老人とは思えないほど、緒林の動作は敏捷(びんしょう)だ。ここでは、生前の体力や筋力の衰えは、なかったことになっているのかもしれない。
そんなことを考えながら緒林のことを観察していると、あることに気づいた。
「もしかして、それ、お守りですか?」
未桜は緒林に一歩近づき、首元を指差した。セーターの襟(えり)の上に、白い紐が見え隠れしている。
「お、ここにあったのか。肌身離さずつけてたから、あの世まで持ってきちまったんだな」
緒林が頬を緩ませ、よいしょ、と細い紐を引き出した。彼が首から下げていたのは、小さな巾着(きんちゃく)型のお守りだった。
緒林が、お守りを掌の上で転がす。白い布でできていて、表には『交通安全』、裏には『御守』という金色の文字が刺繍(ししゅう)してあった。巾着の口の部分には、小さな鈴がついている。
「半年前も、これを身に着けていれば、事故に遭わずに済んだかもしれなかったのによ。あのときは夜中だったから、もう寝間着に着替えてたんだ」
「ってことは、寝るとき以外は、肌身離さず持ち歩いてたんですか?」
「ああ。三十年以上も前からな」
緒林は遠い目をして、雪の降りしきる窓の外を眺めた。
「あれは、女房が死ぬ少し前のことだった。変な霊にでも憑(つ)かれたのか、俺が頻繁(ひんぱん)に交通事故に遭うようになったんだよ。乗っていたバスに後続車が突っ込んだり、横断歩道を渡っているときに右折してきたバイクと接触したりな」
「ええっ、危ない!」
「幸い、後遺症が残るような怪我はなかったんだが、何度も病院に通ったよ。若(わけ)え医者に、『お祓(はら)いでも行かれたらどうです?』なんて鼻で笑われたりしてな。あれは気分が悪かった」
緒林は一瞬眉を寄せたものの、気を取り直したように、白いお守りをそっと握った。
「だがな、お祓いなんて行かずとも、交通事故にはぴたりと遭わなくなったんだ」
「このお守りを……身に着けるようになったから?」
「ああ。ある日夜遅くに仕事を終えて家に帰ったら、夕飯の横に置いてあったんだ。『効き目があるらしいので、どうぞ身に着けてください』って書き置きとともにな」
思わず、うふふ、と声が漏れてしまった。「おい姉ちゃん、なぜ笑うんだ」と緒林が眉尻を上げる。
「だって、微笑ましいじゃないですか! 緒林さまのことを心配した奥さまが、神社に行ってお守りを買ってきてくれたってことですよね? やっぱり、一方通行の愛なんかじゃなかったんですよ。お二人の愛は、対面通行だったんです!」
「ちょっとちょっと、八重樫さん! 『対面通行』だと、なんだかすれ違ってるみたいに聞こえます」
「じゃあ何て言えばいいの? 正面衝突?」
「それだと喧嘩しちゃってます!」
「とにかく、愛想を尽かされたなんていうのは気のせいで、お二人は相思相愛だったんですよ! 夫のことが好きじゃなかったら、わざわざお守りを渡したりするはずがありません。よかったですね、緒林さま!」
アサくんにツッコミを入れられながらも、未桜は緒林の話から受けた印象を、余すところなく伝えた。
けれど、緒林は相変わらず頑固だった。「そんなわけはねえ」と仏頂面(ぶっちょうづら)で言い、首を左右に振る。
「どうせ、俺の医療費がかさんで生活を圧迫するから、仕方なく用意しただけだろ。その頃には、女房の病気もすでに分かってたしな。お守り一つで厄除(やくよ)けできて、一家の大黒柱がしょっちゅう怪我をしなくなるなら、安いもんだ」
「そんなことな――」
「俺はあいつにとって、わがままで、浪費家で、そのくせ稼ぎも悪くて……誰にも自慢できない、甲斐性なしの亭主だったのさ。俺が先に死ねば、あいつも羽を伸ばせただろうにな。俺より三十年も早く、五十で逝くなんて、さぞ心残りも多かったろう」
緒林はそう吐き捨て、天井を見上げた。
「……来世か。元気でやってるといいんだがな。今度こそ……長生きしろよ」
その言葉に、胸を締めつけられる。
――緒林靖子さん、聞こえていますか。
いや、もうその名前ではないのだろうけれど。
前世のことはすべて忘れて、どこかに生まれ変わっているのだろうけれど。
――靖子さんの気持ちがどうだったかは、正直、分かりません。でも、不器用で頑固なご主人がこれほど妻を愛していたということを、あなたは知っていましたか?
緒林がソーサーからカップを取り上げた。半分ほど残っているメモリーブレンドを、もう一口飲む。
その瞬間に、緒林の表情が柔らかくなった。今は身体に触れていないから、どんな光景を見ているのかは分からないけれど、靖子さんとの思い出の続きを再体験しているのだろう。
アサくんにブラウスの袖を引っ張られ、そっとその場から離れた。
来世に“向かう”前の、大切な儀式(ぎしき)を、邪魔(じゃま)してはいけない。