店内が静寂(せいじゃく)に包まれた。マスターも、カウンターの中で身じろぎもせず、じっと天井を見つめている。上を向いた顔もやっぱり、精巧(せいこう)な人形のように整っていた。
「そういや」と沈黙を破ったのは、緒林だった。「ここは“あの世”なんだろ。ってこたぁ、店員のお前らも死んでるのか?」
「え、えっと……私は二年後に……急病で……」
「うん? 今はまだ生きてるってことか」
「そうなんです。ちょっと……バイトをしに来てまして」
歯切れが悪く答える。すると緒林は「もったいねえな」と唇の端を上げた。
「せっかく生きてるのに、こんなところで時間をつぶしてていいのかよ? バイトなんざ、現世でいくらでもできるだろうに」
「い……いいんです! 帰っても面倒なことばかりですし……私がここにいたいと思って、決めたことですからっ!」
マスターやアサくんが、心配そうな顔をしてこちらを眺めている。未桜はその視線に気づかないふりをして、コーヒーカップの持ち手にかけたままの、緒林の節くれだった指を見つめた。
「あと二年か。そんじゃ、大恋愛をするにも結婚するにも時間が足らねえな」
「そうですよね……せめて一生に一度でいいから、彼氏くらいはほしかったんですけど」
「お? もしや姉ちゃん、恋愛未経験か。だが残念だったな。人間の性格ってのはそう簡単に変わらねえ。奥手な奴は、どうせ最後まで奥手だよ。彼氏は来世に持ち越しだ」
「そ、そんなぁ……」
緒林が身も蓋もない決めつけをする。未桜はがっくりと肩を落としたけれど、緒林はちっとも気づかない様子で、マスターを見上げて問いかけた。
「とすると、お前さんたちもみんな、生きてんのか? 貴重な時間を費やして、わざわざ“あの世”で働くたぁ、どんな物好きよ」
「いえ、彼女が特殊な例なんです。僕たちはもう、現世を離れて久しいですね」
マスターがアサくんと目を合わせ、何ということもなさそうに言う。
未桜ははっと息を呑んだ。
――やっぱり、マスターもアサくんも、かつては……生きていた?
「おう、そうか。お前さんたちも死んだのか。そんなに若くして、かわいそうに。病気か? いや、事故か?」
「もうずいぶんと長いこと、ここにいますからね。生きていた頃のことは、ほとんど覚えていないんです。すみません」
秘密主義なのか、それとも、本当に記憶にないのか。マスターの顔をじっと観察してみたけれど、表情の変化が小さく、どちらとも取れなかった。
マスターが亡くなったのは、いつのことなのだろう。
アサくんは、ここで働き始めて十年が経つと言っていた。ということは、たぶん、それよりは前。
十五年、二十年、五十年。
いや、ひょっとすると、百年や二百年前――。
マスターが醸し出す、不思議で深みのあるオーラは、そういう背景から生まれたものなのかもしれない。年齢は若いのに、喋り口調がどこか達観(たっかん)しているのは、そのせいか。時を超越した存在だからこそ、常に冷静で、落ち着いていて、未桜のことも広い心で受け入れてくれたのではないか。
こちらの視線に気づいたのか、マスターがふと、漆黒の瞳をこちらに向けた。
切れ長の、綺麗な目だ。
再び心臓が跳ね上がりそうになり、慌てて目を逸らす。
「僕は、交通事故でしたよ!」
アサくんが、小学校の授業で発言するかのように、元気よく手を挙げた。
「学校から帰ってきた後、自転車で公園に遊びにいこうとして、横断歩道を渡ったら、信号無視のトラックが突っ込んできたんです」
「車に轢(ひ)かれて死んだのか。ひでえ話だ」
「実は、その時点では、意識不明の重体でした。“器”は植物状態で何もできないのに、まだかろうじて命があるから、現世と来世の間で僕の魂は宙ぶらりん。そのときに、マスターが拾ってくれたんです。それで、ここで働くことになりました」
「えっ! ってことは、アサくんの身体は、まだどこかの病院で生きてるの⁉」
未桜はぱっと手を口に当て、驚いて叫んだ。「いえいえ。さすがにもう」とアサくんが苦笑する。
「事故に遭ったのが、十年前。で、僕の“器”の命がようやく尽きたのが、その四年後。十五歳のときです。でも、“器”から魂が離れたのが事故に遭った十一歳のときなので、そこで時が止まっちゃってますね」
そう言って、アサくんが自分の小さな身体を見下ろした。
「本当は、もう希望さえすればいつでも生まれ変われるんですけど、結局ずっと居座っちゃってます。来世喫茶店の従業員って、運よく枠が空いていない限り、なかなかなれるものでもないですし……何より、居心地がとてもいいので!」
アサくんが誇らしげに胸を張った。この穏やかな空気の流れるレトロな喫茶店に心惹かれたのは、未桜だけではなかったようだ。
「懐かしいね。アサくんの採用を決めた日のことが」
マスターがにこやかに口を挟んだ。
「僕たちがここで出会ったあの日は、長く勤めてくれていた店員がちょうど生まれ変わりの輪に戻ったばかりだったから、たまたま枠が一つ空いていたんだったね」
「そうそう。ものすごくラッキーでした!」
「ラッキーだったのは僕のほうだよ。明るさと真面目さと、お客様みんなに好かれるような可愛らしさを併せ持ったアサくんを、とてもタイミングよくスカウトすることができたんだから」
マスターはそう言ってから、来世喫茶店のことをよく知らない緒林と未桜が話に置いていかれないよう、補足説明をしてくれた。
「要するに──僕たち従業員は、現世と来世の狭間(はざま)に生きる人間なんです。従業員になるきっかけは、アサくんのように、生きながらにして“器”に長期間戻れなくなってしまった場合が多いですね。その後“器”がその生命を終えても、従業員の立場はそのままになるというわけです。まあ、いずれにしろ、採用するかどうかはマスターである僕の一存で決まるわけですが」
「そういや」と沈黙を破ったのは、緒林だった。「ここは“あの世”なんだろ。ってこたぁ、店員のお前らも死んでるのか?」
「え、えっと……私は二年後に……急病で……」
「うん? 今はまだ生きてるってことか」
「そうなんです。ちょっと……バイトをしに来てまして」
歯切れが悪く答える。すると緒林は「もったいねえな」と唇の端を上げた。
「せっかく生きてるのに、こんなところで時間をつぶしてていいのかよ? バイトなんざ、現世でいくらでもできるだろうに」
「い……いいんです! 帰っても面倒なことばかりですし……私がここにいたいと思って、決めたことですからっ!」
マスターやアサくんが、心配そうな顔をしてこちらを眺めている。未桜はその視線に気づかないふりをして、コーヒーカップの持ち手にかけたままの、緒林の節くれだった指を見つめた。
「あと二年か。そんじゃ、大恋愛をするにも結婚するにも時間が足らねえな」
「そうですよね……せめて一生に一度でいいから、彼氏くらいはほしかったんですけど」
「お? もしや姉ちゃん、恋愛未経験か。だが残念だったな。人間の性格ってのはそう簡単に変わらねえ。奥手な奴は、どうせ最後まで奥手だよ。彼氏は来世に持ち越しだ」
「そ、そんなぁ……」
緒林が身も蓋もない決めつけをする。未桜はがっくりと肩を落としたけれど、緒林はちっとも気づかない様子で、マスターを見上げて問いかけた。
「とすると、お前さんたちもみんな、生きてんのか? 貴重な時間を費やして、わざわざ“あの世”で働くたぁ、どんな物好きよ」
「いえ、彼女が特殊な例なんです。僕たちはもう、現世を離れて久しいですね」
マスターがアサくんと目を合わせ、何ということもなさそうに言う。
未桜ははっと息を呑んだ。
――やっぱり、マスターもアサくんも、かつては……生きていた?
「おう、そうか。お前さんたちも死んだのか。そんなに若くして、かわいそうに。病気か? いや、事故か?」
「もうずいぶんと長いこと、ここにいますからね。生きていた頃のことは、ほとんど覚えていないんです。すみません」
秘密主義なのか、それとも、本当に記憶にないのか。マスターの顔をじっと観察してみたけれど、表情の変化が小さく、どちらとも取れなかった。
マスターが亡くなったのは、いつのことなのだろう。
アサくんは、ここで働き始めて十年が経つと言っていた。ということは、たぶん、それよりは前。
十五年、二十年、五十年。
いや、ひょっとすると、百年や二百年前――。
マスターが醸し出す、不思議で深みのあるオーラは、そういう背景から生まれたものなのかもしれない。年齢は若いのに、喋り口調がどこか達観(たっかん)しているのは、そのせいか。時を超越した存在だからこそ、常に冷静で、落ち着いていて、未桜のことも広い心で受け入れてくれたのではないか。
こちらの視線に気づいたのか、マスターがふと、漆黒の瞳をこちらに向けた。
切れ長の、綺麗な目だ。
再び心臓が跳ね上がりそうになり、慌てて目を逸らす。
「僕は、交通事故でしたよ!」
アサくんが、小学校の授業で発言するかのように、元気よく手を挙げた。
「学校から帰ってきた後、自転車で公園に遊びにいこうとして、横断歩道を渡ったら、信号無視のトラックが突っ込んできたんです」
「車に轢(ひ)かれて死んだのか。ひでえ話だ」
「実は、その時点では、意識不明の重体でした。“器”は植物状態で何もできないのに、まだかろうじて命があるから、現世と来世の間で僕の魂は宙ぶらりん。そのときに、マスターが拾ってくれたんです。それで、ここで働くことになりました」
「えっ! ってことは、アサくんの身体は、まだどこかの病院で生きてるの⁉」
未桜はぱっと手を口に当て、驚いて叫んだ。「いえいえ。さすがにもう」とアサくんが苦笑する。
「事故に遭ったのが、十年前。で、僕の“器”の命がようやく尽きたのが、その四年後。十五歳のときです。でも、“器”から魂が離れたのが事故に遭った十一歳のときなので、そこで時が止まっちゃってますね」
そう言って、アサくんが自分の小さな身体を見下ろした。
「本当は、もう希望さえすればいつでも生まれ変われるんですけど、結局ずっと居座っちゃってます。来世喫茶店の従業員って、運よく枠が空いていない限り、なかなかなれるものでもないですし……何より、居心地がとてもいいので!」
アサくんが誇らしげに胸を張った。この穏やかな空気の流れるレトロな喫茶店に心惹かれたのは、未桜だけではなかったようだ。
「懐かしいね。アサくんの採用を決めた日のことが」
マスターがにこやかに口を挟んだ。
「僕たちがここで出会ったあの日は、長く勤めてくれていた店員がちょうど生まれ変わりの輪に戻ったばかりだったから、たまたま枠が一つ空いていたんだったね」
「そうそう。ものすごくラッキーでした!」
「ラッキーだったのは僕のほうだよ。明るさと真面目さと、お客様みんなに好かれるような可愛らしさを併せ持ったアサくんを、とてもタイミングよくスカウトすることができたんだから」
マスターはそう言ってから、来世喫茶店のことをよく知らない緒林と未桜が話に置いていかれないよう、補足説明をしてくれた。
「要するに──僕たち従業員は、現世と来世の狭間(はざま)に生きる人間なんです。従業員になるきっかけは、アサくんのように、生きながらにして“器”に長期間戻れなくなってしまった場合が多いですね。その後“器”がその生命を終えても、従業員の立場はそのままになるというわけです。まあ、いずれにしろ、採用するかどうかはマスターである僕の一存で決まるわけですが」