「これは驚いた。これは……驚いた」
 カップから口を離した緒林が、放心したように呟いた。
 アサくんに腕をつつかれ、慌てて老人の肩から手を離す。未桜のまぶたの裏には、靖子のこの上なく幸せそうな表情が焼きついていた。
「まるで、二十六の頃に戻ったみてえだったな。あの懐かしい鍛冶場も、靖子も、指輪も……そうだそうだ、あんな感じだったよ」
 人生で一番の思い出を再体験した緒林は、幾分(いくぶん)心が穏やかになった様子だった。
未桜もまた、圧倒されていた。
メモリーブレンドの力は計り知れない。自分が体験した記憶でも何でもないのに、あまりの臨場感(りんじょうかん)に、傍観者(ぼうかんしゃ)という立場を忘れて見入ってしまった。
まるで自分が若き鍛冶職人で、たった今愛する恋人へのプロポーズを済ませたかのような錯覚に陥る。緒林のためらいも、焦燥感(しょうそうかん)も、返事をもらった後の喜びも、すべてが未桜の胸の中に残っていた。
「十二月の終わりの初雪の日に、手作りの指輪をプレゼント、ですかぁ。あっ、もしかして、ホワイトクリスマス⁉」
「バカ言え。昭和三十年代に、恋人同士がクリスマスを祝う習慣なんざねえよ。あの日はな、あいつの誕生日だったんだ」
「うわぁ、ロマンチック! あんなプロポーズ、私も受けてみたいなぁ……」
 感激して呟いてから、自分が二年後に、二十一歳で死ぬことを思い出す。
たぶん未桜は、プロポーズされることも、誰かと結婚することも、それどころか男の人と付き合うこともなく、人生を終える。
そう考えるとちょっぴり残念だけれど、隣のアサくんが神妙な顔をしているのを見て、表情には出さないよう気をつけた。
「緒林さまと奥さまって、さぞ仲良く素敵なご夫婦だったんでしょうね」
 プロポーズのシーンから受けた印象のままに、ウキウキと話しかける。けれど、緒林は急に顔を曇らせ、「そんなこたねえよ」とそっぽを向いてしまった。
「今見た瞬間が、山のてっぺんさ。結婚は人生の墓場ってのは本当だな。嫁姑問題だの、俺の態度が亭主関白だの、金遣いが荒いだの、些細(ささい)なことでしょっちゅう喧嘩するようになって……あの指輪だって、あいつが指にちゃんとつけてるのを、その後一度も見たことがねえ」
「えっ……そうなんですか?」
「『つけねえのか』って何度訊いても、遠回しに拒まれるんだ。『だってあれ、大きいし、派手なんだもの』とか言ってよ。せめて家のどっかにしまいこんであればよかったが、あいつが癌で死んだ後の遺品整理でも出てこなかった。勝手に処分しちまうなんて、ひでえ話だよ。女の指にはちと太くて、分厚くて、見た目が気に入らなかったのかもしれねえが……だったらそう言えばいいんだ」
 緒林の口調には、一抹(いちまつ)の寂しさが混ざっていた。「そんなことも気軽に言えねえくらい、俺は女房に疎ましがられてたってこったな」という聞こえるか聞こえないくらいの呟きに、未桜とアサくんはおずおずと目を見合わせ、こらえきれずに俯(うつむ)いた。
 そんなのって――と、悲しくなる。
 記憶の中で幸福そうな若い二人を見たばかりだからこそ、信じたくなかった。
 だけど、夫婦が死ぬまで円満に添い遂げるというのは、時に難しいものなのだろう。
人生、山もあれば、谷もある。
緒林の言うとおり、プロポーズの瞬間が山頂だったのだとしたら、あとはひたすら下るだけだったのかもしれない。
「八十三まで生きて、人生で一番大事な思い出が、あいつへのプロポーズだなんてな。ああ、みっともねえ。同じ食卓についてもろくに会話がなく、口を開けば喧嘩ばかりで、病気が重くなるまで体調の相談すらしてもらえなかったような、そんな険悪な夫婦仲だったのによ」
 緒林は、白いコーヒーカップの縁を、右手の中指の爪でピンと弾いた。
「所詮、一方通行の愛だったんだ。あいつは料理も裁縫もプロ並みに得意で、何より、道行く男が次々振り返るような器量よし。対して俺は、鍛冶場にこもってばかりで、家庭を顧みもしなかった。どうせ、あいつは俺なんかに嫁いだことを後悔して、他に男を作ってたに違いねえ。男の側も、あれを放っておかねえだろうしな」
「そんなこと……ないですよ……」
「ああ、思えば仕事ばかりで、味気ねえ人生だった。妻子を養うために朝から晩まで金槌を振るい続けた挙句、結局は女房にも息子らにも愛想(あいそ)を尽かされてよ。これが、時代に逆らい続けた町の鍛冶屋の末路ってもんさ」
 緒林の背中が、不意に萎縮(いしゅく)して見えた。さっきまでは、態度の大きい、頑固で面倒なお客さんだと思っていたのに。
 ――そうか、だから緒林さんは、相席カフェラテを頼まなかったんだ。
 ようやく納得がいった。
けれど、それはあまりに悲しい理由だった。
どんな言葉をかけていいものか、また、分からなくなる。