「今から五十七年前……冬の日のプロポーズの記憶か。モカの爽やかさと、マンデリンの苦味……浅煎(い)りと、深煎り……隠し味は……」
 アサくんから伝票を受け取ったマスターが、柔らかそうな黒髪を片手で掻(か)き上げる。そして小さな声で呟きながら、異なるコーヒー豆の入った瓶を次々と手に取っていく。
 アフターブレンド、と仕事の説明をしてくれたアサくんは言っていた。お客さんの注文を受けてから、個別に焙煎(ばいせん)しておいた豆をその場で調合し、二つとない味のコーヒーを淹れるのだという。
 マスターの手つきは鮮やかだった。
様々な種類のコーヒー豆が、あっという間に手元の白い器の中に集まっていく。
ミルのハンドルを、幼子の頭を優しく撫でるように、一定速度で回す。
ふわりと、香ばしい匂いが漂う。
「わあ……」
 気がつくと、感嘆(かんたん)の声が漏れていた。マスターの手から、一瞬たりとも目が離せない。
挽き上がった豆をペーパーフィルターに空け、少量のお湯を注ぐ。
それからゆっくりと、細く長く、お湯を回し入れていく。
こだわっているのに、動きに無駄がない。美しい切れ長の目が、サーバーに一滴ずつ落ちていく深い色のコーヒーを、まっすぐに見つめている。
抽出したコーヒーをカップに注ぐ間も、未桜の目はマスターの手に吸い寄せられていた。
――そうだ。
と、急に腑(ふ)に落ちる。
――私はこれを見たくて、喫茶店で働こうと思ったんだ。
「よし、できあがり」
 マスターが歌うように言い、コーヒーサーバーを元の位置に戻した。「では、よろしく」と男の人らしい大きな手が肩にそっと置かれ、危うく心臓が飛び跳ねそうになる。
 ねえねえ、とエプロンの裾(すそ)を引っ張られ、未桜は我に返った。
 振り向くと、アサくんがこちらを見上げていた。
「運ぶのは、八重樫さんにお任せしていいですか? 僕も一応、後ろで見守っていますから」
「あっ、うん!」
 慌ててお盆を手に取り、中身をこぼさないように気をつけながら、コーヒーカップを載せる。そのまま持っていこうとすると、「ちょっと、忘れてますよ!」と鋭い囁(ささや)き声で呼び止められた。
「え、何を?」
「ミルクとお砂糖です!」
 さっき教えたじゃないですかぁ、というアサくんの心の声が聞こえてきそうだ。
 顔が火照(ほて)るのを感じながら、アサくんがさりげなく用意してくれていたミルクピッチャーとシュガーポットをお盆の隅に置いた。
 気を取り直して、カウンター席に陣取った緒林のもとへと、慎重(しんちょう)に歩いていく。
「お待たせいたしました。メモリーブレンドです」
 ソーサーの縁を持ち、カウンターにそっと置いた。十分に注意を払ったつもりだったけれど、手が震えてカチャリと食器を鳴らしてしまい、首をすくめて緒林の表情を窺う。
 怒られる、という未桜の予想は外れた。
 緒林は、どこか寂しそうな表情で、窓の外にちらつく雪をじっと眺めていた。
 ――ここを訪れるお客様の、記憶なんですよ。
 ――人生の中で見た、印象的なシーンです。
 さっきのアサくんの言葉を思い出す。
 雪が降り始めた直後に、緒林が来店した、ということは――。
「おい、新人の姉ちゃん」
 声をかけられ、「は、はいっ!」と緒林に向き直った。新人とすっかりバレているのが恥ずかしい。
「ミルクと砂糖を入れても、特別な効能とやらが薄まったりはしないんだよな?」
「ええ、そのはず――」と言いつつ、後ろに控えているアサくんの顔をチラ見する。彼がこくこくと頷くのを確認してから、「――です。そうです!」と断言した。
「コーヒーなんざ、しばらく飲んでねえからな。そもそも死ぬまでの半年は病院暮らしだったんだ。いきなりブラックじゃ、舌がびっくりしちまう」
 弁解するように言いつつ、緒林はミルクと砂糖をたっぷりコーヒーに入れ始めた。
 強面(こわもて)で短気なこの老人が、ちょっぴり可愛らしく見えてくる。ふふ、と思わず笑みを漏らすと、「何だよ、おかしいか?」と緒林が片方の眉を吊り上げた。
「いえ! ……やっぱり、素敵だなぁ、って。奥さまにプロポーズをしたのは、もう五十年以上前のことなんですよね。それが人生で一番大切な記憶だなんて……奥さまも嬉しいだろうなぁ。どんなプロポーズだったのか、気になります!」
 笑った理由をはぐらかすつもりが、ついつい本心を語ってしまった。
 だって、すごい。
 八十年以上の人生の中で、燦然(さんぜん)と一位に輝く、宝物のような思い出。
 しかも、緒林はプロポーズをされた側ではなく、した側だ。
 そのときのことを再体験したいという希望を聞いただけで、彼がどれだけ奥さんのことを愛していたのかが、よく伝わってくる。
「まあ、一世一代の大勝負だったからな。あいつは、俺のようなしがない鍛冶職人の女房になるにはもったいないくらい、いい女だったんだ」
 意外にも、緒林は未桜の発言に気分をよくしたようだった。再び窓の外にちらりと目をやり、「一緒に見てみるか?」と尋ねてくる。
「……えっ?」
「俺が今から再体験する記憶を、さ」
「そんなことができるんですか?」
「俺は知らねえよ。店員ならそういう権限(けんげん)があるんじゃねえのかって、こっちが訊いてんだ」
 ――もう、穴があったら入りたい!
 アサくん並みに頬が赤くなっていることを自覚しながら、未桜はまたも振り返り、小さな先輩店員に目で合図して助けを求めた。
 未桜の空回りぶりに呆れている様子のアサくんは、「八重樫さんって、なかなか天然というか、度胸(どきょう)がありますよねえ」と小声で呟いてから、改めて姿勢を正した。
「緒林さまさえよければ、可能ですよ。次のお客様のご来店予定時刻までは、まだ余裕がありますし……」
 リストに目を落としてから、アサくんは「僕たち、ちょっと抜けてもいいですか?」とマスターに許可を求めた。
さりげなく、自分も未桜と一緒に記憶を覗き見することにしたようだ。緒林の話が気になっていたのは、アサくんも同じだったらしい。
 マスターは無言で頷き、どうぞ、というようにメモリーブレンドのカップを手で指し示した。
「じゃあ、飲むぞ。準備はいいか?」
「えっ、私はどうすればいいの?」
「緒林さまの身体に触れるんです。そうすれば、同じ体験をすることができます」
 アサくんに促され、未桜は緒林の骨ばった肩に、そっと手をのせた。
 緒林が、コーヒーカップに手を伸ばした。
 メモリーブレンドの表面が、七色に光ったように見えた。
 見間違いかと、何度か瞬きをする。
 老人のひび割れた唇が、美しい茶褐色の液体に触れる。