「あっ、ダメですよ」

ひらりとその手をかわせば、ギロリとあのいかつい眼差し。

お饅頭、よっぽど気に入ったんだな。

そう思うと、龍神様の怖さが半減する。私はお饅頭の箱をちらつかせつつ、交換条件を持ちかけることにした。

「私のこと、静紀って呼んでください。あと、龍神様の名前も知りたいです」

龍神の長がいるってことは、龍神は他にもいるってことだ。聞いちゃったあとでなんだけど、人間みたいに名前とかあるのかな?

答えてくれるか怪しかったが、龍神様は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべている。取引材料がお饅頭でどうなんだとも思ったけれど、効果はてきめんだったようだ。

「……翠」

「すい……それが龍神様の名前……。綺麗な音ですね、どういう字を書くんですか? ちなみに、私はこう書きます」

縁側にあった草履を借りて地面に下りた私は、手近にあった木の枝で土の上に【静紀】と書いて見せた。次は龍神様の番ですよ!と期待しながら見上げれば、「面倒くせえ」とそっぽを向いてしまう。

「お饅頭」

和菓子でそそのかせば、翠の肩がぴくりと跳ねた。本当に渋々といった様子で、私の隣にしゃがみ、端正な顔に似合う美しい字で【翠】と書く。

「翠って……みどりとも読みますよね。翠の髪、真っ赤なのに変なの」

ふふっと笑えば、翠がわずかに目を見張った。私は記憶に刻むようにもう一度、その名を口にする。

「翠」

「気安く呼ぶんじゃねえ、うじ虫が」

「またうじ虫って言った……名前を呼んでくれるまで、翠、翠って連呼しますよ」

にんまりしながらそう言えば、翠は首に手を当ててため息をつき、唇を動かした。

「静紀」

低く耳心地のいい声が私の名を奏でた。不覚にも鼓動が跳ね、一瞬ぼうっとしてしまった私は、すぐに頭(かぶり)を振る。なにをときめいてるんだ、私は。

とにもかくにも、これからは名前で呼んでもらえそう。そんな淡い期待は翠のひとことで早々に打ち消される。