キュウは地面に向かって降りていく。
 こっちに声をかけもしない勝手さに、わたしはこいつに友達がいないことを確信する。

 慣れない空中への恐怖を押し殺しながら、適当にじたばたと空気を掻いて、なんとか地上に降り立った。
 すぐ脇にあったコンビニを覗き込み時計を確認すると、四時前を示していた。わたしが事故に遭ってから随分時間が経っていたみたいだ。
 いつもなら寝ている時間だけれど、病院で眠っていたからか、それともこの体のせいか、眠気は少しも感じなかった。

 ふと、道路に立つカーブミラーを見上げる。
 街灯に照らされた場所に、わたしの姿は映っていなかった。影のひとつもない。

「……」

 もう散々実感していたけれど、改めて今の自分がどれだけ心許ないものであるかを目の当たりにし、ぞっとした。
 今のわたしは透明な存在……いや、存在していない存在なのだ。

 もしかすると、このまま体に戻ることなく、簡単に消えてしまうんじゃないだろうか。

 そう考えて、慌ててぶんぶんと首を振る。
 悪いほうに考えると本当にそうなってしまいそうだ。

 わたしはまだ死んではいない。ちゃんとこの世に存在している。
 今はちょっと中身だけが出かけているだけで、キュウと一緒にいさえすれば必ず元に戻れるはずだ。
 自分の体に……お母さんや恭弥のいる、いつもの日々に。
 だから大丈夫。心配することなんてない。

「ねえ、キュウの仕事って何?」

 頭の中の考えを振り払うように、少し離れたところに立つキュウに声をかける。
 キュウは、さっき持っていた古びた手帳をもう一度開いていた。書き込むことはなく、そこに記してあることを確認しているようだ。

「死んだ魂を還るべき場所へ導くこと。わかりやすく言えば、成仏させることだ」

 キュウが手帳に目をやったまま答える。

「おまえも何事もなく死んでいれば、そのうちぼくが迎えに行く予定だった」
「何事もなくって……死んでる時点で大事だけど」
「あとは、魂が抱いている未練を解消させることも、ぼくらの仕事のひとつ」

 手帳を閉じ、キュウはわたしに振り向いた。

「未練?」
「まあ、多少の心残りならない者のほうがいないから、大抵はそのまま成仏させるんだが。中には強い未練を残し、この世から動くことができない者もいる。そういった者には、この世から離れていけるよう手を貸さなければいけない」

 そう言うと、キュウは街灯の少ない道をどこかに向かって歩き出す。

「どこ行くの?」
「次の仕事の場へ」
「……だったら、病院にいたほうがいいんじゃないの?」

 自分もそこにいる手前、口にはしづらかったけれど、病院で亡くなる人が多いのは事実だ。

「病院にはほとんど用はない。死んだ直後に導くわけじゃないから、迎えに行く頃には大体の魂は縁のある場所に戻っている」
「へえ……そういうものなんだ」
「葬儀が行われる者はそれを終えてから。基本は四十九日を迎える前に成仏させる。四十九日を過ぎてしまうと、いわゆる地縛霊と言われるようなものになって、成仏させられなくなってしまうこともある」

 だから仕事を遅らせることはできないとキュウは言う。
 わたしは背後の建物を振り返った。肩越しに見る真夜中の病院は、なんだか妙に寂しげに見える。

 自分の体があそこにいるからだろうか。
 寂しそうだなんて思うのは、たぶんわたし自身が後ろ髪を引かれているからだ。

「日野青葉、早く来い」

 まだ聞き慣れない声がわたしを呼ぶ。
 わたしは一度唇を噛んでから、病院に背を向け、走ってキュウを追いかけた。