「日野青葉」
キュウが呼んだ。
「……何?」
「行くぞ」
「どこに?」
「仕事だ。ぼくはおまえの面倒を見ること以外にも仕事をしなければいけない」
キュウはそう言って、治療室の出入口へ向かっていく。
わたしはちらりとお母さんを見た。
お母さんとはさっきから一度も目が合っていない。
お母さんは、わたしがここにいることに気づかずに、眠る抜け殻を見つめ続けている。
死にそうなのはわたしのほうなのに、まるで自分が死んだような顔をして、目を覚ますことのないわたしが起きるのを待っている。
「……わたし、ここにいる」
キュウが足を止め振り返るのがわかった。
わたしは下唇を噛みながら、お母さんの横顔を見ていた。
わたしはお母さんの人生の重荷になっている。そう思っていた少し前までの自分に馬鹿だって言いたかった。
いなければいいなんて思っている人が、こんな顔をするはずがない。
「うっ、お母さん……」
じわりと目に涙が滲む。
幽霊でも涙は出るのかと、慌てて手の甲で瞼を拭った。
ここにいても何もできないことはわかっている。
それでもここを離れることはできなかった。
お母さんと一緒にいたい。気づいてもらえなくても、そばにいられるだけでいい。
「……はあ」
大きなため息が聞こえ、顔を上げる。
キュウが大股でこちらに歩み寄ってきていた。
「ちょ、え」
キュウはわたしの腕を強く掴むと、そのまま壁のほうへと引っ張った。
キュウの足は止まらない。
目の前に壁が迫り、ぶつかる、と、思わずぎゅっと目をつぶる。
――何かにぶつかった感触はなかった。
そういえば今の自分は物に触れられないのだと思い至り、恐る恐る瞼を開ける。
真夜中の街が見えた。
建物の明かりは少なく、空は真っ暗だった。朝はまだしばらく来ないみたいだ。
わたしの腕を引っ張るキュウの髪がふわと揺れた。
振り返ると、今までいたであろう建物が見えていた。
市内にある一番大きな病院だ。中に入ったことはなかったけれど、外観は通りがけに何度も見たことがある。
照明の中にぼんやりと浮かぶ病院の壁面看板が、目線と同じ高さにあった。
八階建ての病院の、最上階に設置されている看板だった。
ふと下を見る。
ローファーを履いた足の下に、地面はない。
「うわあっ!」
咄嗟にキュウに抱きついた。
宙に浮いている。そう気づき、体の中心にさあっと冷たいものが走る。
幽霊だから落ちても平気だし、そもそもさっきから浮いているから落ちる心配はないはずだ。そうわかっていても、この状況は怖かった。
しかしわたしのパニックなどお構いなしに、キュウは縋りつくわたしを乱暴に引き剥がす。
「日野青葉」
低く棘のある声でキュウはわたしを呼んだ。
さっきまでのっぺらぼうのようだったキュウの表情に、ほんの少しだけ感情が見えていた。
わずかに寄せられた眉根からして、いい感情ではないのは確かだ。
「話を聞いていなかったのか。おまえの身はぼくが預かることになっているんだ。おまえがどうしたいかなんて聞いていないし心底どうでもいい」
「……」
「大変な目に遭っていると思っているだろうがな、面倒なことに巻き込まれたのはぼくも同じなんだ。こんなこと、滅多に起こることじゃない。事実ぼくは初めて担当する。いいか、これ以上ぼくの手間を増やすな」
早口でまくしたてられ呆気にとられた。
足元のぞわつく感覚。飛んでいる恐怖。異様な状況。非日常の始まりと、生死のはざまに立たされた不安。
今までにないものが一気に押し寄せ、すでに何もかもいっぱいいっぱいだったのに、さらにどうでもいいと突き放され怒られ、もう心は限界を超えていた。
どうしてこんなことを言われなきゃいけないんだろう。
わたしが一体、何をしたって言うんだ。
「おまえは文句を言わずに大人しくぼくのそばにいろ」
いいな、とキュウは念を押すように言った。
突き刺すような視線がわたしに向けられていた。
真夜中の道路をトラックが走り抜けていくエンジン音が聞こえる。
「よく、ない……」
「なんだと?」
「全然よくないよ! そっちはちょっと面倒なだけじゃん。わたしの気持ちももっと考えてよ。こっちは生きるか死ぬかって言われて、わけわかんないことになってて、頭で理解はしてても気持ちは全然追いついてないんだよ」
叫ぶと同時に一気に涙が溢れた。もう言葉にならず、閉じた唇からは嗚咽が漏れ、もう声を我慢することも諦めた。
情緒がおかしくなっているのだろうか、自分でも驚くくらい大声を上げて泣いてしまった。
これからどうなるのか不安しかない。
唯一頼れそうな人はわたしの味方じゃない。
怖い。助けてほしい。教えてほしい。誰でもいいから大丈夫だって言ってほしい。
お母さんから自立しようとして、恭弥を突っぱねて、ひとりでも大丈夫だと思っていたくせに。
本当にひとりになって、もう誰にも会えなくなるかもしれないと思ったら、こんなにも心細くなるなんて。
「わかった」
しゃくり上げながらキュウを見た。
涙の膜の向こうから冷たい視線が突き刺さる。
「なら、おまえはもうここに置いていく。好きにしろ」
「え……は?」
「だがおまえの担当はぼくと決まっている。ぼくがいなければおまえは生き返ることになってもそれを知ることなく、元の体に戻ることもできない。ずっとそのままだ」
「な、え、何それ」
「おまえがぼくと行くことを拒否するのだから仕方ないだろう。ぼくはきちんとおまえの面倒を見るつもりがあるのに、おまえにそのつもりがないのだから」
「そんな……」
最低だ。どう足掻いてもこいつはわたしの思いに寄り添う気なんてない。
自分の言うとおりにさせるか、わたしを見捨てるかの二択しか頭にないんだ。
「じゃあな」
不安と恐怖の中に、今度はふつふつと怒りが湧いた。
こんな奴と一緒になんていたくない。従いたくもない。
でも。
「ちょっと、待ってよ」
「なんだ?」
「言うとおりにするから、置いてかないで」
小さな声でそう答えた。キュウは能面みたいな表情に戻り、
「最初からそう言えばいい」
と、わたしから視線を逸らした。
ぎゅっと唇を結ぶ。
こんな嫌な奴の言うことは聞きたくない。もっと落ち着いて考える時間が欲しいし、わたしに優しくしてほしい。
こんな事態に陥って、冷静でいられるほうがおかしいのに、どうしてわたしが我慢して言うことを聞かなければいけないのだろう。
だけど、たとえそばにいるのがこいつだとしても、今ひとりになるのはもっと嫌だった。
それに、キュウに吐き散らかしたところで無駄だということもわかっていた。
たぶん、結局はキュウもわたしと同じなのだ。
決められた何かを受け入れ、従うしかない。
わたしにもキュウにも、最初から選べる選択肢なんてなかった。
「……」
ずずっと鼻をすすり涙を雑に拭う。
キュウも大変なんだと思うことにしよう。
だとしても、もう少し思いやりを持って接してくれてもいいんじゃないかとは思うし、やっぱり腹は立つけれど。
「あんたって性格悪いね」
丸い後頭部に向かって、ヤケクソ気味にそう言った。
振り返ったキュウは、不思議そうに眉を寄せていた。
「そんなこと初めて言われた」
こいつの周囲にはよほど優しい人しかいないか、もしくは友達がひとりもいないのだろう。わたしの予想としては、後者だと思う。
キュウが呼んだ。
「……何?」
「行くぞ」
「どこに?」
「仕事だ。ぼくはおまえの面倒を見ること以外にも仕事をしなければいけない」
キュウはそう言って、治療室の出入口へ向かっていく。
わたしはちらりとお母さんを見た。
お母さんとはさっきから一度も目が合っていない。
お母さんは、わたしがここにいることに気づかずに、眠る抜け殻を見つめ続けている。
死にそうなのはわたしのほうなのに、まるで自分が死んだような顔をして、目を覚ますことのないわたしが起きるのを待っている。
「……わたし、ここにいる」
キュウが足を止め振り返るのがわかった。
わたしは下唇を噛みながら、お母さんの横顔を見ていた。
わたしはお母さんの人生の重荷になっている。そう思っていた少し前までの自分に馬鹿だって言いたかった。
いなければいいなんて思っている人が、こんな顔をするはずがない。
「うっ、お母さん……」
じわりと目に涙が滲む。
幽霊でも涙は出るのかと、慌てて手の甲で瞼を拭った。
ここにいても何もできないことはわかっている。
それでもここを離れることはできなかった。
お母さんと一緒にいたい。気づいてもらえなくても、そばにいられるだけでいい。
「……はあ」
大きなため息が聞こえ、顔を上げる。
キュウが大股でこちらに歩み寄ってきていた。
「ちょ、え」
キュウはわたしの腕を強く掴むと、そのまま壁のほうへと引っ張った。
キュウの足は止まらない。
目の前に壁が迫り、ぶつかる、と、思わずぎゅっと目をつぶる。
――何かにぶつかった感触はなかった。
そういえば今の自分は物に触れられないのだと思い至り、恐る恐る瞼を開ける。
真夜中の街が見えた。
建物の明かりは少なく、空は真っ暗だった。朝はまだしばらく来ないみたいだ。
わたしの腕を引っ張るキュウの髪がふわと揺れた。
振り返ると、今までいたであろう建物が見えていた。
市内にある一番大きな病院だ。中に入ったことはなかったけれど、外観は通りがけに何度も見たことがある。
照明の中にぼんやりと浮かぶ病院の壁面看板が、目線と同じ高さにあった。
八階建ての病院の、最上階に設置されている看板だった。
ふと下を見る。
ローファーを履いた足の下に、地面はない。
「うわあっ!」
咄嗟にキュウに抱きついた。
宙に浮いている。そう気づき、体の中心にさあっと冷たいものが走る。
幽霊だから落ちても平気だし、そもそもさっきから浮いているから落ちる心配はないはずだ。そうわかっていても、この状況は怖かった。
しかしわたしのパニックなどお構いなしに、キュウは縋りつくわたしを乱暴に引き剥がす。
「日野青葉」
低く棘のある声でキュウはわたしを呼んだ。
さっきまでのっぺらぼうのようだったキュウの表情に、ほんの少しだけ感情が見えていた。
わずかに寄せられた眉根からして、いい感情ではないのは確かだ。
「話を聞いていなかったのか。おまえの身はぼくが預かることになっているんだ。おまえがどうしたいかなんて聞いていないし心底どうでもいい」
「……」
「大変な目に遭っていると思っているだろうがな、面倒なことに巻き込まれたのはぼくも同じなんだ。こんなこと、滅多に起こることじゃない。事実ぼくは初めて担当する。いいか、これ以上ぼくの手間を増やすな」
早口でまくしたてられ呆気にとられた。
足元のぞわつく感覚。飛んでいる恐怖。異様な状況。非日常の始まりと、生死のはざまに立たされた不安。
今までにないものが一気に押し寄せ、すでに何もかもいっぱいいっぱいだったのに、さらにどうでもいいと突き放され怒られ、もう心は限界を超えていた。
どうしてこんなことを言われなきゃいけないんだろう。
わたしが一体、何をしたって言うんだ。
「おまえは文句を言わずに大人しくぼくのそばにいろ」
いいな、とキュウは念を押すように言った。
突き刺すような視線がわたしに向けられていた。
真夜中の道路をトラックが走り抜けていくエンジン音が聞こえる。
「よく、ない……」
「なんだと?」
「全然よくないよ! そっちはちょっと面倒なだけじゃん。わたしの気持ちももっと考えてよ。こっちは生きるか死ぬかって言われて、わけわかんないことになってて、頭で理解はしてても気持ちは全然追いついてないんだよ」
叫ぶと同時に一気に涙が溢れた。もう言葉にならず、閉じた唇からは嗚咽が漏れ、もう声を我慢することも諦めた。
情緒がおかしくなっているのだろうか、自分でも驚くくらい大声を上げて泣いてしまった。
これからどうなるのか不安しかない。
唯一頼れそうな人はわたしの味方じゃない。
怖い。助けてほしい。教えてほしい。誰でもいいから大丈夫だって言ってほしい。
お母さんから自立しようとして、恭弥を突っぱねて、ひとりでも大丈夫だと思っていたくせに。
本当にひとりになって、もう誰にも会えなくなるかもしれないと思ったら、こんなにも心細くなるなんて。
「わかった」
しゃくり上げながらキュウを見た。
涙の膜の向こうから冷たい視線が突き刺さる。
「なら、おまえはもうここに置いていく。好きにしろ」
「え……は?」
「だがおまえの担当はぼくと決まっている。ぼくがいなければおまえは生き返ることになってもそれを知ることなく、元の体に戻ることもできない。ずっとそのままだ」
「な、え、何それ」
「おまえがぼくと行くことを拒否するのだから仕方ないだろう。ぼくはきちんとおまえの面倒を見るつもりがあるのに、おまえにそのつもりがないのだから」
「そんな……」
最低だ。どう足掻いてもこいつはわたしの思いに寄り添う気なんてない。
自分の言うとおりにさせるか、わたしを見捨てるかの二択しか頭にないんだ。
「じゃあな」
不安と恐怖の中に、今度はふつふつと怒りが湧いた。
こんな奴と一緒になんていたくない。従いたくもない。
でも。
「ちょっと、待ってよ」
「なんだ?」
「言うとおりにするから、置いてかないで」
小さな声でそう答えた。キュウは能面みたいな表情に戻り、
「最初からそう言えばいい」
と、わたしから視線を逸らした。
ぎゅっと唇を結ぶ。
こんな嫌な奴の言うことは聞きたくない。もっと落ち着いて考える時間が欲しいし、わたしに優しくしてほしい。
こんな事態に陥って、冷静でいられるほうがおかしいのに、どうしてわたしが我慢して言うことを聞かなければいけないのだろう。
だけど、たとえそばにいるのがこいつだとしても、今ひとりになるのはもっと嫌だった。
それに、キュウに吐き散らかしたところで無駄だということもわかっていた。
たぶん、結局はキュウもわたしと同じなのだ。
決められた何かを受け入れ、従うしかない。
わたしにもキュウにも、最初から選べる選択肢なんてなかった。
「……」
ずずっと鼻をすすり涙を雑に拭う。
キュウも大変なんだと思うことにしよう。
だとしても、もう少し思いやりを持って接してくれてもいいんじゃないかとは思うし、やっぱり腹は立つけれど。
「あんたって性格悪いね」
丸い後頭部に向かって、ヤケクソ気味にそう言った。
振り返ったキュウは、不思議そうに眉を寄せていた。
「そんなこと初めて言われた」
こいつの周囲にはよほど優しい人しかいないか、もしくは友達がひとりもいないのだろう。わたしの予想としては、後者だと思う。