「日野青葉」

 ふいに、名前を呼ばれた。
 どうせわたしを呼んでいるわけではないのだろうと思いながらも、反射的にのそりと顔を上げ振り返る。

 ベッドの足元に、ひとりの男の子が立っていた。

 わたしと同じくらいの歳だ。
 癖のない髪は色素が薄く、ほんの少し茶色がかっている。古臭いデザインの襟付きシャツに、折り目のついたスラックスを穿いていた。
 顔立ちは上品だけれど、表情がまるでなく、冷たい印象を受ける。

 わたしはその男の子を見つめていた。
 そしてその男の子も、わたしのことを見ていた。

「日野青葉」

 と、男の子はもう一度わたしの名前を呼ぶ。
 お母さんも、近くにいる看護師さんたちも、その声には誰も反応を示さない。

「おまえ、日野青葉で間違いないな」
「そ、そうだけど……ねえ、わたしのことが見えてるの?」
「ああ」

 答えはあっさり返ってきた。
 考える間もなく男の子の腕を掴んだ。わたしの手は確かに、その子の細い腕を掴んでいた。

「ねえ、わたしに何が起きてるか知ってる? わたし今どうなってるの? 知ってるなら教えて!」

 縋れるのはこの腕しかなかった。他の誰にも声が届かなかったのだ。
 わたしは必死に叫び、男の子へ――何者なのかすらわからない彼へ、答えを求めた。

 男の子は、表情ひとつ動かすことなく、右手の人差し指を正面へ向ける。

「おまえは今、あの体から意識だけが離れた状態になっている」

 指し示された場所はベッドの上だ。
 微動だにしないから、見ただけでは生きているのか死んでいるのかもわからない。ただ、機械は間違いなく鼓動を刻んでいる。

「いわば魂のみの状態だ。幽体離脱とでも言うのか。だから生きている者にはおまえの姿は見えないし、声も聞こえない」
「魂って……待ってよ、じゃああそこにいるのって、やっぱりわたしなの?」
「そうだ。日野青葉、おまえは死んだ」

 声も出せなかった。
 ゆっくりと戻した視線の先にいる男の子は、いまだわたしの体のほうを見つめたまま、ほんの少しだけ目を細める。

「……はずだった」

 男の子はわたしの手を振り払うと、どこから取り出したのか古びたぶ厚い手帳を開いた。紙を雑に捲り、後ろ寄りのページで手を止める。

「二〇一九年十月十八日、二十二時十四分。酔っぱらった若者が背中にぶつかったことと、体調不良が重なったことから、道路に飛び出し、走ってきたトラックと衝突」

 そこに書いてあるのだろうことを、やや掠れた声が淡々と読み上げる。

「その場で死亡。これがおまえの運命だった」

 男の子が手帳を閉じた。わたしはこめかみを押さえながら、彼が言ったことを頭の中で繰り返し、自分に起きたはずのことを思い出す。

 ……そうだ、確かにわたしはバイトの帰り道、信号待ちをしている最中にふらついて、まだ赤だった横断歩道に出てしまった。
 目の前に迫ったヘッドライトの眩しさと、肌に当たる雨粒、誰かの叫び声を、覚えている。
 ぶつかった瞬間のことまでは思い出せないし、怖くて思い出そうとすることもできないけれど……あのとき事故に遭ったのは事実だ。
 この男の子は本当のことを言っている。でも。

「わたし、まだ死んでないよ。あそこに寝てる体、ちゃんと生きてるじゃん」

 あれが本当にわたしの体だとして、そして今ここにいるわたしが体から離れ出た魂であるとして。
 わたしはまだ、死んでなんかいない。
 ベッドで横になっているわたしの体は確かに生きている。

「死んだはずだった、と言っただろう。この件に関して、少々問題が発生した」

 男の子の目がわたしに向く。
 髪と同じく色素の薄い瞳は、綺麗だけれど、どこか作り物のようでもあった。感情のない人形の目……ガラス玉みたいだ。

「運命の不具合というものだ。ごく稀にしか起こらないそれが、今回おまえの身に起きてしまった」
「運命の、不具合?」
「本来のおまえに定められた運命は、事故で即死。つまりすでに死んでいるはずだった。だが不具合により、おまえが歩むはずだった運命がほんのわずかに歪んでしまい、一時一命を取り留めた。ぎりぎりではあるが、まだおまえの魂は体と完全に切り離されることなく、繋がっている状態だ」

 あまりに現実味がない話だった。とても信じることなどできない。けれど、信じるしかない。
 自分がもうひとりいることも、わたしが誰にも認知されず、触れることすらできないことも、すでに知ってしまっているのだから。

「運命の不具合が起きた場合は再度生死の審査が執り行われる。日野青葉、おまえの場合も同様だ。審査結果が出るまで数日からひと月ほど、おまえはこのままの状態となる。その間、おまえのその身はぼくが預かることになる」

 まるで抑揚のない口調で語られるから、それがわたしの生死をかけた話であるという気がしなかった。

 ただ、理解はした。
 わたしの身に起きていることとその原因、そしてそれが不具合なんて簡単な言葉で表されていることを。

 即死を免れたことを感謝するべきなのだろうか。それとも、命を軽く扱われていることを怒るべきなのだろうか。
 頭がおかしくなりそうだ。おかしくなる頭が、今のわたしにあるのかもわからないけれど。

「……待って。審査って、じゃあもしもそれで死ぬって決まったら、わたしは死ななきゃいけないってこと?」
「そうだ」
「嫌だよ、そんな……死にたくない!」

 男の子の腕をきつく掴み叫んだ。
 こんなにも大声を上げているのに、わたしの声が聞こえているのは目の前の人だけだった。
 同じ高さの目線が真っ直ぐにわたしの目を見つめ返している。

「なぜ?」

 と男の子は聞いた。
 さっきまでと変わらない口調と表情で、わたしに、なぜ死にたくないのかと。

「なぜって、そんな、当たり前じゃん……」
「当たり前? はたしてそうか? おまえはなぜ死にたくない? 誰であってもいつかは必ず死が来るのに? ほんの少し生き長らえてなんの意味がある?」
「意味、なんて」

 あると言いたかった。わたしはまだ十七歳になったばかりだし、まだ未来がある。生きる意味も、死にたくない理由もあるはずだ。
 けれど、何も言えなかった。

 わからなかった。
 どうして生きるのか、わたしが生きている意味は何か、なんて。

 誇れる特技があるわけでもない。未来はあっても目標はない。将来の夢とか、人生に抱く希望とか、守りたいものとか、そんなものもない。
 死にたくないのは確かだ。けれど、生きている意味を聞かれて、胸を張って言える答えが、今のわたしの中にはない。

「嫌だと言おうと、おまえにもぼくにもどうにもできない。こればかりは受け入れるしかない」

 視線を逸らさずに、男の子はそう言った。
 わたしに寄り添う気などかけらもなさそうだった。

 腕を掴んでいた手を下ろす。代わりに、制服のブレザーの裾をぎゅっと握る。

「……あんた、何者?」

 見た目は、普通の男の子だ。同じくらいの歳で、身長も同じくらい。服装は古臭くて少しダサい。
 幽霊みたいなものになっているわたしの姿が見えていて、今のわたしの状況をわたしよりも知っている。
 感情が見えない、ガラス玉みたいな目をした少年。
 わたしと同じく、他の人たちには姿が見えていない、不思議な存在。

「ぼくは、死んだあとのおまえを導くはずだった者」
「死神?」
「そう言われることもある。あとは、天使とか」

 こんな無愛想な奴、天使には到底見えないし、そうだと思いたくもなかった。

「名前はあるの?」

 訊ねると、少し間を置いてから答えが返ってくる。

「キュウ、と呼ばれている」
「……変な名前」

 意地悪のつもりで言ってみたのに、目の前の男の子――キュウは、とくに何も言い返してはこなかった。

 ブレザーを強く握っていた手を離し、自分の両方の手のひらを眺めてみる。
 ほんのり赤くなっていて、血が通っているように見える。
 指を握れば感触がするし、温度もあるように思う。

 でもここに、わたしの体はない。これはわたしの体ではないのだ。

 わたしの体は眠っていて、一生懸命生きようとしている。
 けれど、未来はわからない。神様か誰かに決められた運命に従うしかない。