杏果はふっと視線を空へと移すと、ゆっくりと僕から大きく一歩離れた。冬の気温は低いはずなのに、彼女と触れていた部分はそれよりも冷えていたらしい。空気が生ぬるく感じ、僕はぎゅっと拳を握った。きっともう、触れることは叶わない。

 彼女はそのままゆっくりと、段差を下まで降りていく。この公園の、唯一のステージ。僕たちだけの、秘密のステージ。これまで何度、そこで歌うようにとすすめただろうか。今までは恥ずかしがって向かわなかったその場所で、彼女はぴたりと足を止めた。

「──ねえいっくん。ギター、弾いてくれるかな」

 きっとこれが、彼女と僕のラストステージ。新たな涙がにじみそうになった目元を強く擦り、僕はギターケースを開ける。夜の明かりを受け、鈍く光るアコースティックギター。ここにはじーちゃんとの思い出がたくさん詰まっている。そして、杏果との思い出も。
 ステージの中央で背筋を伸ばして立っている杏果は、どこからどう見ても夢を叶えた女の子だ。穏やかで自信に満ち溢れたその表情は、決して作られたものではない。

 深呼吸をひとつして、僕はゆっくりとギターに指を寄り添わせた。ぽろんと響く、柔らかな音色。

 一番最初に僕が作った曲──、手紙代わりに書いた歌詞。それをなぞる彼女の歌声は、やはり聞き惚れてしまうほどに美しい。何度聞いても新鮮な驚きがあって、毎回心が激しく震える。だけど今夜はその美しさが、余計に切なく夜空に響く。

 ──あのさ、杏果。本当に夢みたいな時間だったよ。学校で孤立していた僕に友達ができたのも、全部きみのおかげだった。何もかもがどうでもいいと思っていた僕をここまで変えたのは、杏果にしかできないことだったと思うんだ。蕎麦、うまかったね。冬に食べるアイスの美味しさも、険しい坂道を自転車で上る無謀なチャレンジも、あの丘の上から見たこの街の景色も、どれもきみがくれた贈り物だったんだね。

 本当はさ、僕だってもう一度吉祥寺に連れていきたいと思ってたんだよ。この間は僕のためになっちゃったからさ、次こそは杏果が思い切り楽しめる場所に行こうと思ってたんだ。春が来れば井の頭公園は桜が満開に咲き誇ってすごく綺麗なんだ。カップルが乗ったら別れるなんていうジンクスがあるボートにだって、乗ろうと思ってた。もしかしたらそのときには僕たちは恋人同士になっててさ、ジンクスなんてぶち壊すくらいの絆ができているんじゃないかって期待していたんだ。

 夏にはこの街で、大きなお祭りがあるって聞いた。花火がすごく綺麗に見える穴場スポットがあるって前に言ってたじゃないか。紅葉だってまだ見ていないし、僕らにはまだまだ、一緒にやらなきゃいけないことがあったはずなのに──。

 夜空に吸い込まれる杏果の歌声。今夜も観客は、目を閉じて耳を立てるマルだけ。僕らの音楽以外は何も聞こえない、特別なこの空間。

 その時だった。ヒュン──と彼女の後ろで光が一筋落ちたのは。

 演奏の手を止めることなく空を仰げば、いくつもの星が降ってくるのが見えた。奇跡が降らせた流星群。ステージの中央にいる杏果も、つられるように歌いながら天を仰ぐ。それからこちらに向かって、嬉しそうに笑ったのだ。そのときに、僕の目はしっかりと捉えていた。彼女のふたつの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちるのを。

『いっくんってさ、音痴なんだね』
『わかってないなぁ、いっくんは』
『いっくんの音楽は、人を幸せにする力がある』
『──いっくんが、歌ってよ』
『この景色をね、いっくんに見せたかったの』
『ねえ、いっくん』

 僕の名を幾度も呼んでくれたきみ。仄暗い水底から、光を照らしてくれたきみ。いつも笑顔で、僕を勇気づけてくれたきみ。
 たくさんの彼女の笑顔が走馬灯のように駆け巡る。

「……杏果」

 ギターを弾く手を止めぬまま、僕は彼女の名前を呟く。

「……なあ、杏果」

 もう一度、もう一度。その度に涙は溢れる。ころんころんとギターの上に落ちていく。
 歌っている彼女には、この声は聞こえてなんかいない。だけど僕は、呼ばずにはいられなかった。

 きっとこれからも、僕はきみの名前を呼ぶのだろう。嬉しいとき、楽しいとき、悲しいときに苦しいとき。何度でも何度でも、僕はその名を呼ぶよ。そんなとき、きっときみはそばにいる。

 最後まで、彼女は歌うことをやめなかった。そして僕も、ギターを弾く手を止めることはなかった。きっとこれが、僕たちなりの一番の感情表現。

 音楽は時として、言葉以上に想いを伝える。

 最後まで拙い僕でごめん。初恋のことも、忘れていて悪かった。だけどね、僕にとっての初恋もさ、相手はやっぱりきみだったんだ。十六歳の、眩しいきみ。


 ──なあ杏果。すごくすごく、好きだったよ。