「歌手になりたいっていう夢を、いっくんが叶えてくれたの」
じわりと口の中に錆臭い味が広がる。奥歯を強く噛み締めたせいで、血が出たのだろう。それでも僕は、力を緩めることができなかった。だってそうでもしなきゃ、僕は自分を保てなくなると思ったんだ。
消えるな。
消えるな。
消えるな。
頼むから、消えないでくれ。
もう一生、夜のままでいい。朝なんてこなくてもいい。この世界が暗闇で覆われていても、彼女さえいてくれればそれでいい。
だから神様。僕から杏果を、奪ったりしないでほしい。
「──今度は、いっくんの番だよ」
杏果の声はとても穏やかで、それでいて優しくて、僕のことを包み込むように柔く響く。
「無理だって……」
ぶるぶると震えてしまう、かっこ悪い僕の声。だけどもうどうしようもなかった。だって、無理に決まっているんだ。杏果がいたから、僕は夢を見つけられた。杏果がいたから、曲を作りたいとそう思えた。杏果がいたから──。
「違うよいっくん。その夢は、ちゃんといっくん自身が見つけたものだよ」
繋いだ手から流れ込むのは彼女の体温ではなくて、不思議なことに今までにふたりで作った曲のメロディたちだった。鼓膜を揺らすわけではない。音として空気を振動させているわけでもない。だけどそのメロディは、優しく、軽やかに、僕の体の中を駆け巡る。全身を駆け巡る。体の細胞ひとつひとつに、奮わせるように語りかける。
僕はもう、限界だった。どんなに拳を握りしめても、どんなに歯を食いしばっても、熱くこみ上げてくるものを食い止めることなんてできない。大粒の滴はとめどなく溢れて、僕はもうその止め方を知らなかった。
かっこ悪い。かっこ悪いけど、どうしようもないんだ。だめなんだ、絶対に手放してはいけないんだ。絶対に失うわけにはいかないんだ。
「杏果がいてこその、僕だったんだよ」
「……うん」
「杏果の歌があってこその、僕の曲だった」
「…………」
「杏果がいなくなったら、僕は──」
「……なんでそんなこと言うの?」
涙でふやけた世界の中で、彼女の嘆く声が響いた。ぱた、と涙がひとつぶ落ちて、僕はぐっと鼻先を腕でぬぐう。
「わたしだってそばにいたいよ……。わたしだって一緒に夢を叶えたい。夢に向かって進んでいくいっくんを支えたい。大人になったいっくんも、おじさんになったいっくんも、おじいちゃんになったいっくんのことも一番近くで見ていたいよ!」
そう言った杏果は、今度は俯く。
「だけど、できないから……」
ポツリと落ちたか細い声に、僕は自分の身勝手さを知ったのだ。
彼女を失いたくない。彼女がいなきゃ夢を叶えられない。彼女なしでは自分の夢さえ見失ってしまう──。そんなの、全部全部ただのエゴだ。
本当にすべてをなくしてしまったのは、彼女の方なのに。
ここまで来ても、僕はまだまだ未熟なままだ。小さな子供のようにだだをこねて欲しがって、大事な人の気持ちを直視できず、手放すことが怖くて仕方ない。
「……しっかりしろよ、自分……」
僕は立ち上がると、彼女の腕をぐいっと引き上げた。驚いたように立ち上がった杏果の頬には、やっぱり今夜も涙の筋なんて走っていない。
彼女は泣かない。いつだって、どんなときも、決して涙を流したりなんかしないんだ。
僕はぎゅっと、杏果のことを腕の中へと閉じ込めた。その体はとても細くて、それでいて冷たくて、なのにどこか柔らかくて──やっぱり僕は、相も変わらず涙が溢れてしまうんだ。
「……ごめん、杏果」
「……なんでいっくんが謝るの」
「いつも自分のことばっかりで」
「そんなこと、ないよ」
「杏果なしじゃ進めないなんて、杏果のことを困らせるだけなのに」
「……うん」
「本当に僕はさ、杏果と掴む夢しか見えてなかったんだ」
「…………」
「だけど……、ちゃんとしなきゃいけないんだよな」
「……うん」
「──自分で決める道だから」
「いっくんの、道だから」
彼女のために書いた曲。彼女のために作った曲。だけどきっと、杏果という存在だけが僕を突き動かしていたわけではない。もっとシンプルで、もっと近くにあって、原動力となるその思いは──。僕を導くその光は──。
「──僕は〝音楽〟が好きみたいだ」
そう。自分で思っているよりも、ずっとずっと。僕を救ってくれた音楽、僕と彼女を結んでくれた音楽。そしていつかは自分も、音楽を通して誰かの心に寄り添えるような役割を担いたいと、いつの間にかそんなことを願うようになっていたのだ。
少しだけ体を離した杏果は僕の顔を見上げると、ほっとしたように柔く微笑む。やっぱり、大事なことに気付かせてくれるのはいつだって杏果だ。だけどこれからは、自分で気付ける僕にならなければいけない。
ずるいね。僕ばっかりずるずるに泣いてしまってさ、きみは綺麗に笑うばかりなんて。ついに最後の最後まで、涙を見せてはくれないんだね。