「──むかしむかし、ある田舎町にひとりの女の子が住んでいました」
手のひらに握った拳の爪先がぎりぎりと食い込む。そんな僕の横で、突然杏果が語り始めた。
僕が「なに」と聞こうとすると、彼女は人差し指を自分の唇の前に立てる。いいから黙って聞いて、ということなのかもしれない。
「その女の子は歌うことが大好きで、歌手になることを夢に見ていました。ところがある日、友達からその夢を笑われてしまいます。ひどく傷ついた少女は、家に帰り母親にそのことを話しました。すると母親からも『もうみんな大人になり始めているのね』と言われてしまったのです」
これは、杏果の物語だ。
「どんなときにも自分の夢を応援してくれる味方だと思っていた母親からもそう言われて喧嘩をしてしまった少女は、こっそりと家を抜け出しました。悲しくて悲しくて、自分自身を否定された気持ちでいっぱいになってしまったのです。そうして気付くと、小さな公園にやって来ていました」
公園、というワードに僕は改めてこの場所をぐるりと見回す。引っ越してきてから初めて来たと思っていた場所。だけどここは我が家から──つまりじーちゃんの家からすぐの場所にある。幼い頃に訪れていても、何の不思議もない。
「そこでひとりの男の子と出会います。その子は、薄暗い中、何て言うんだっけ……とにかく、サッカーボールをぽーんぽーんと蹴飛ばしていました」
「リフティング、な」
そこで訂正を入れると、杏果は、「ああ!」と目を丸く開いて「リフティングをしていました」と言い直す。
「泣いている女の子の話を聞いた男の子は、こう言いました。『誰が何を言おうと関係ないよ。自分の人生は、自分のものじゃん』──と」
その言葉に、僕はゆっくりと顔を上げて杏果を見つめる。
『いっくんの人生は、いっくんのもの』
以前、あの丘の上で杏果にもらった言葉が思い出されたのだ。
杏果も僕がそれに気付いたとわかったのだろう。へへ、と鼻に小さくシワを寄せると「いっくんの二番煎じでした」と笑った。
すっかりと薄れてしまっていた記憶。深くは刻まれなかった、幼い頃の夏のひととき。それでも彼女の心には、しっかりと残っていたのだ。淡くて切ない、初恋と共に。
「なんだよ……嫉妬なんかしてバカみたいだな」
「嫉妬してくれたの?」
声を弾ませる杏果に、僕はため息を吐き出しながらも顎を引く。
もっと早く気付けばよかった。初恋の話を聞いたときに、それが僕だとわかっていたら何かが変わっていたのだろうか。そんな普通の恋愛のようなことを考えた僕は、いや、とかぶりを振った。
──何も変わったりはしない。僕が今からどうしようと、どうもしなかろうと、何も変わったりはしないんだ。
黙り込んでしまった僕の手に、彼女は自分の手を重ねた。初めて触れる、杏果の手。ひんやりとした、冷たい手。どうしようもなく、愛おしくてたまらない。
「いっくんと出会えて、本当に本当によかったなぁ」
ほんのりと、空の色が変わり始めてきていた。空の支配者が入れ替わるときが近づいているのかもしれない。僕はぎゅっと、冷たい手を握り返す。強く、強く。絶対に、離さないよう。
「サッカーをやってたいっくんも、空っぽになってしまったいっくんも、音楽を生み出すいっくんも、わたしにとってはいつもいつも眩しかったよ」
なあ、やめてくれ。それを言うのは僕の方だ。
出会ってから一度だって、涙を見せたりしなかった杏果。いつも優しく微笑んでくれた杏果。きみはいつだって、僕のたったひとつの光だった。
「いっくんと出会わなければ、歌を作ることの楽しさにも気付けなかった」
僕だってそうだ。覚えているだろ? 僕が初めて完成させることができた曲は、杏果への手紙を書く代わりに生まれたんだってこと。杏果がいなかったら、曲を生み出すということにも出会えなかったんだ。
「自分の歌声で、誰かが感動してくれるなんて思わなかったんだよ」
そんなことない。路上ライブでのお客さんたちの顔を見ただろ? みんな、すごく幸せそうな顔をしていた。嫌なことやつらいことを、あの瞬間は忘れることができていた。ただの高校生でしかない僕たちの音楽に、あんなにたくさんの人が足を止めてくれたんだ。それは杏果の歌声の持つ魅力に誰もが惹き込まれてしまったから。
──僕だって。僕だって、杏果の歌で人生が変わったんだ。ああ、どうして僕はそれを彼女にもっともっと伝えなかったんだろう。たくさん時間はあったはずなのに。これからいつでも言えるだろうと、何度でも言う機会はあるだろうと、時間は有限だと僕は気付けなかったのだ。