「あのさ……。いつから〝杏果〟だったのか教えてもらえる?」
適切な言葉がわからず、だけど僕は素直に疑問を口にした。少なくとも僕が最初に公園で出会ったときは、彼女はすでに杏果だった。僕の問いに、杏果は両手の指先を擦り合わせながら苦笑いする。
「咲果ってね、なんでもわたしに話すの。学校であったこととか、家でのこととか、友達とのこととか。鏡に向かって、そこに映る自分の姿を通してわたしにいつも話しかける。もちろんわたしは返事をすることはできないし、咲果の前に姿を現すこともできないんだけどね。そんなある日、スカした転校生が来たんだよって咲果が言ったの」
やはりそれは、現実とは少し離れた世界の物語にも聞こえる。それでも、毎日鏡に向かって話しかける咲果を想像すれば、これは物語でもなんでもなく、大事な姉を失った妹の切なすぎる現実なのだと思い知る。
「わたし、すぐわかった。なんでだろう、幽霊だからなのかな? その男の子がわたしの初恋の相手なんだって、すぐにわかったんだよ。いいな、いいな、わたしも話したい。再会したかったって強く思った。そしたら神様がちょっとだけ、同情してくれたのかな。気付いたら咲果の体の中に、わたしがいたの」
最初は戸惑ったという杏果。妹の体を乗っ取ってしまったのではないかと、初めは不安になったらしい、今自分がここにいるならば、妹の魂はどうなってしまったのだろうかと。
その考えは、僕の知る彼女らしいものだった。いつも僕の気持ちを優先させてくれた彼女。自分のことよりも周りを大事にしていた彼女。到底信じられないような話なのに、僕の細胞ひとつひとつが〝彼女は杏果だ〟と主張している。
「でもね、途中でわかったの。咲果の魂は眠っているだけで、わたしが消えたらきちんと全ては元通りに戻るんだって」
ドン、と心臓を一息に踏み潰されたような気がした。
彼女が自然に含ませた〝わたしが消えたら〟という言葉。半分おとぎ話を聞いているような気分でいた僕は、自分を保つためにもその言葉をあえて流すように努めた。ギリッという奥歯が軋む音と引き換えに、どうにか冷静さを保つ。
「本当はもっと早く終わりにしなくちゃいけなかったんだけどね……わたしのわがままで、ぎりぎりまで咲果の体を借りちゃった」
その言葉本来の意味を理解してしまわぬよう気をつけながら、僕はそっと絡まった糸を解く作業に集中した。
この場所で初めて杏果に会ったとき、クラスメイトである沢石咲果とは別の人物と話したように僕は感じた。
「誰にも知られちゃいけないと思って、学校では咲果らしく振る舞っていたの。だけどいっくんの前では、本当の自分になっちゃってた」
勉強が得意な方である咲果が赤点を取ったのは、一年間のブランクがある杏果がテストを受けたから。
「まあでもあれはあれで、いっくんとふたりで補講になったからラッキーだったな」
音楽の授業中にわざとおしゃべりをしたり、バックコーラスを選んでさらに口パクで合唱に参加していたのは〝音楽を憎んでいる咲果〟を演じるため。
「咲果は、音楽のせいでわたしが死んだと思っているからね。それに、もともとあまり歌は得意じゃないの。いっくんほど音痴じゃないけど」
ぺろりと小さな赤い舌を出す杏果に、僕の中には切ない安堵感が芽生えてしまう。
公園で初めて出会った夜、「音痴」っていきなり言われたっけ。やっぱり最初から、彼女はずっと杏果だった。僕の夢なんかじゃなくて、幻なんかじゃなくて、本当にちゃんと存在していたのだ。
しかしそこで、僕はひとつ絡まったままの糸を見つける。それは、名前のことだ。彼女は咲果ではなかった。それならば、僕が最初に呼んでいた〝沢石〟という呼び方でよかったのではないだろうか。
それを問えば、彼女は「あー……」と少し考えるようにしてから口を開いた。
「あれはね、自己暗示みたいな感じ。咲果って呼んでもらうことで、この体は自分のものじゃないってことを忘れないようにしてたんだ」
借り物だからね、と杏果は改めて自分の胸元を見つめた。
──ああ、まただ。少しでも気を抜くと、叫び出してしまいたくなる。「消えたりするな」と彼女を力づくで引き止めてしまいそうになる。堪えている涙が弾けてしまいそうになる。
僕は大げさなほどに大きく深呼吸をする。大丈夫だ、大丈夫。今ここに、彼女はいる。悲壮感なんてまとっていない、明るい笑顔を見せる彼女がここにいるのだ。それが全てだろ?
僕は気を取り直すように不格好な笑顔を浮かべる。自然な会話がしたかった。今までの、普段どおりの僕らのままで。
「じゃあ僕らが毎晩公園で会っていることや、一緒に曲を作っていることを口外するなっていうのも同じ理由?」
杏果は「うーん」とちょっとだけ唇を丸くして視線を泳がせてから、堪忍したように笑う。
「それもあるけど……。一番は、咲果といっくんが付き合ってるってみんなに思われるのが嫌だったから」
いたずらが見つかった子供のように誤魔化し笑いをする彼女を前に、言いようのない愛おしさや切なさが、蓋をした胸の中から溢れてしまいそうだった。
杏果は一体どんな気持ちで僕との時間を過ごしてきたのだろうか。いつかは消えてしまう自分の運命を知りながら、それでも弱音なんて吐かず、いつでも僕を支えてくれた。空っぽになったり、やさぐれて棘だらけになったり、全てを投げだそうとした僕の隣で、いつも笑っていてくれた。
あの夜、彼女がここに来てくれなかったら、今の僕はきっといない。