歌うことが大好きで、〝天使の歌声〟と地元では有名だった杏果の夢は歌手になることだった。テレビの取材を受けたこともあり、本人はもちろん周りも幼いその才能に「もしかしたら」と夢を見ていた時期もあった。しかし、彼女の歌声に〝慣れて〟しまった周りの人々は、現実を彼女に求めるようになったというのは、以前聞いた通りだ。
「誰もわかってくれなくても夢を諦めたくなかった。無謀だとか、大きすぎる夢だとか、厳しい世界だとか散々言われて。そんなの、わたしが一番よくわかってたんだよ……」
彼女は彼女なりに、自己実現をしようと行動に移していた。貯めていたお年玉を使って単発のボーカルレッスンに行ったこともあったし、驚くことに自分の歌を動画サイトにアップしたりもしていたという。しかし、現実はやはりそう甘くはない。
「生まれ持ったこの声だけで、夢を叶えられるなんて思ったことはないよ。歌がうまい人なんてたくさんいて、きれいな声を持つ人も大勢いる。実力だけじゃどうしようもなくて、運やタイミングが人生を決めることもある。だけど動くことをやめてしまったら、そこで全部止まっちゃうでしょ? わたしはあのときまだ、夢を追いかけることをやめたくなかったの」
そう語る彼女の表情は凛としていて、吸い込まれるように僕はただ見つめることしかできない。天に与えられた歌声を持ちながらも、それに甘んじることなく夢を掴もうと努力を重ねていた杏果。そんな中、最初は味方でいてくれた周りが変化していく様子を彼女はどんな想いで見つめていたのだろう。
頑張ることを辞めてしまいたい理由なんて、きっといくつもあっただろう。逃げ出したくなる日だって、数えられないほどにあったのかもしれない。
しかしそこで屈することなく、前へ前へと進もうとしていた彼女の強さに、僕は心打たれていた。何かが彼女を、強く突き動かしていたのだ。それは一体、何だったのだろう。
「そんなとき、大きなオーディションがあったの」
彼女は僕でも知る、某有名レコード会社の名前を出す。そこでじわりと、嫌な汗がこめかみににじむのを感じた。──話の、核心に近づいてきている。
「妹にだけ話したんだ。それで、学校に行くふりをして家を出てね」
そこで彼女は、まぶたを伏せた。長いまつげは月明かりで頬に長い影を作る。
「十時からのオーディション。電車の乗り換えで迷って、会場の最寄りの駅に着いたのがぎりぎりになっちゃったの。もう、目の前だったんだよ? その会場前の交差点で、トラックが走ってきてね。──それでおしまい」
彼女は最後の一言を、サラリとした口調で締めくくった。ボウによれば、トラックの運転手は居眠り運転をしていたということだった。しかし、彼女はそんなことは一言も言わない。いつもそうだ、彼女は何かを他人のせいにしたりしない。
死んだら人の魂はどうなるのだろう。彼女がこの一年、ずっとどこかをふわふわと飛んでいたのか、それとも双子の妹を見守っていたのか、それとも別のどこかにいたのか。そんなことは僕には想像もつかない。