はあ、とため息を付きながらまぶたを押し開ける。めまいはマシになってきたみたいだ。見慣れた真っ白い天井とまるいライト。僕は半ば無意識に枕元に放り投げていたスマホを手に取った。人間というのはどれだけ混乱していても、体に染み付いている動作は考えなくても自然とできてしまうものなのかもしれない。
 ボウからのメッセージ通知が三件たまっていたけれど、僕はそれを後回しにして親指でカメラロールを開く。

 彼女と出会ってから、僕は以前より写真を撮ることが増えた。スマホを持っていない彼女がしょっちゅう「撮ったら送って」とせがんできたからだ。だけどそれは、何も特別な風景ではない。
 一緒に食べたスナック菓子だったり、月夜に照らされた霜柱だったり、マルのちょっと変な格好だったり、踏切のバーが落ちる瞬間だったり、じーちゃんがくれたギターの一部だったり、公園の隅で赤い実をつけていたヒイラギだったり、ふたりで丘の上から見たオレンジ色の街並みだったり。

 それらは全て、僕の日常。いや、僕たちの日常を切り取ったものだった。
 確かにここに、彼女はいた。僕の隣で、笑っていたんだ。

「なんで撮らなかったんだろう……」

 ずらりと並ぶこの街の風景たち。そこに、彼女の姿はない。カメラに収めたいと思いながらも、どこか気恥ずかしくて彼女にレンズを向けることができなかったんだ。

 ──会いたい。僕の知る彼女に。くしゃりと笑う彼女に。

「……そういえば」

 バッと僕は勢いよく飛び上がった。それから両手でスマホを操作する。
 確かに僕は、レンズでは彼女の姿を収めなかった。しかし完成した曲を咲果が歌うときには、スマホで録音していた。つまり、歌声は残っているはずなのだ。

 どくんどくんと心臓は大きく揺れる。唇が震えそうになって、深く息を吸い込んだ。
 透き通るような、どこまでも伸びやかな、それでいてあたたかい彼女の歌声。たくさんの人の琴線に触れる、心の声。僕はそれを、きちんとこの便利な手の平サイズの箱の中に収めていたじゃないか。

「ちゃんとある……」

 画面に並ぶのは、七つほどの音声データ。今までに作った曲をひとつずつ、こうして残していた。しかし、再生するのはこれが初めてのことだ。
 長さはそれぞれに三分から五分ほど。大丈夫、ちゃんとここに存在している。
 僕は震える手で、一曲目の再生ボタンをタップした。静まり返った六帖部屋に、ザザ、という雑音が響く。これは多分、公園の目の前を流れる川の音だ。普段あそこで過ごしている分には気にならなかったけれど、これほどクリアに背景の音も拾ってくれているらしい。スマホの録音機能とはいえ、侮れないなと僕は思った。
 次いで聞こえてきたのは、拙い僕のギターによるイントロダクション。それほど前のものではないはずなのに、今よりもずっと演奏に粗が目立つように感じた。この短い期間で、少しは僕のギターの腕も上達しているのだろうか。

 ここからだ。ここから、彼女の歌声が──。

「……聞こえ、ない……?」

 スピーカーから聞こえてくるのは、ザーザーという川の音と、いびつなギターの旋律だけ。ジャカジャカという音を何度繰り返しても、彼女の声だけが聞こえてこない。

 僕はそのデータを一時停止すると、ふたつめのものを再生させる。みっつめ、よっつめ、いつつめ。変化は曲調にバリエーションが増えたこと、ギターの音色が少しはマシになったこと。変わらなかったのは、川の音が響いていることと、彼女の歌声が少しも入っていないことだった。