どうやって自宅まで帰ってきたのか覚えていない。急激なめまいを覚えた僕は「早退する」とボウに告げてから駐輪場へ行き、自転車であの坂を下ってきたはずだ。細い路地をいくつか抜けて、最後に坂を上って家に着いたのだろう。だけどその行動が、景色が、ひとつも記憶に残っていなかった。幸い、両親は仕事で夜まで帰ってこない。
「……どういうことだよ」
ベッドに仰向けに倒れた僕は、ぽつりと呟いた。
──全然、意味がわからない。
咲果には杏果という双子の姉がいる。姉の杏果は歌うことが好きで、歌手になることを夢見ていた。さらに咲果は僕にはっきりと『妹がいる』とそう言った。
既読のつかないメッセージと、突然復活した咲果のスマホ。〝いっくん〟と僕を呼んだかつての彼女と、あの朝以来僕のことを〝朔田〟と呼ぶようになった今の彼女。
さらに僕の脳裏には、吉祥寺に向かう電車の中での不思議なやりとりが色濃く残っていた。僕が「今日か」と呟いた言葉に対し、彼女が過剰に反応していたあの出来事。彼女は何度も僕に「きょうか」という言葉を口にさせては嬉しそうに笑っていた。もしかしたらあれは、自分の名前を呼ばれたことに対して喜んでいたのだろうか──。
ここまでのことを考えれば、僕がこの一ヶ月ほどの濃い時間を過ごしてきた相手は杏果と考える方がしっくりくる。しかしすんなりそれを受け入れるわけにはいかない。なぜならば、杏果は一年も前にこの世を去ってしまっているからだ。
「……は? ありえないだろ……」
そうやって僕は自分が持ちうる情報を羅列させてひとつの答えを導き出しては、それを打ち消すようにきつく目を閉じた。
もしかしたら逆に、咲果が杏果のふりをしていたという考えはどうだろうか。例えば、夢を叶えられなかった杏果の無念を晴らすために代わりに歌を歌っていたとか──。
もっともらしい現実味のある考えを打ち立ててみても、やっぱりそこには不自然さしか残らない。
幽霊だとか生まれ変わりだとか、そういう目に見えないものは信じないタイプの僕にとって、この一連の出来事は理解不能でしかない。
それでも僕が彼女と過ごした日々は確かに存在していたはずで、彼女と作った曲だってしっかりと残っている。ただ、それを証明してくれる第三者は誰もいない。今の僕と猫のマル以外に、あの日々を知っている人はいないのだ。