「一時間目っ、間に合った!」

 飛び込んできたのは、肩で息をする制服姿の咲果──。

 彼女は目の前にいた僕と目を合わせると、呼吸を整えるようにしながらニッと笑った。その笑顔は、僕の中にじくりと嫌な違和感を生む。

 なんだろう。なんでそう思うんだろう。いつもしているオレンジ色のマフラーが、モスグリーンのものだからだろうか。いつもとポニーテールの位置が、少し違う? いや、そういうわけじゃない。なんだろう、何かがいつもと〝違う〟と感じる。

「おはよ、いっくん」

 ふわりと香る柔らかな香り。このシャンプーの香りだって、僕が知っている彼女のものと同じなのに──。

 僕の横をすり抜けるようにした彼女の腕を、無意識のうちに僕の右手が掴んでいた。驚いたようにこちらを振り返る咲果の瞳は、何かに怯えるように小さく揺れる。

 違う。咲果はこんな目で、僕のことを見たりしない。

「──お前、誰?」

 鋭い僕の声が、彼女のポニーテールを不安定にゆらりと揺らした。

「は?」

 冷静な声は、僕の後ろから響いた。そこにいたのは同じようにロッカーに荷物を取りに来ていた倉田で、冷ややかな目で僕を見ている。
 そこで僕は咲果の腕を強く掴んでいたことに気が付き、パッとそれを離した。

「朔田、何寝ぼけてんの?」

 倉田の声に、強張った目の前の咲果はくしゃっと顔を崩し「いっくん寝ぼけてるのーやだなあ」と明るく笑った。それからモスグリーンのもこもこマフラーを鼻先までぎゅ、と持ち上げた咲果は、今度はじろりと僕の顔を見上げる。

「クラスメイトに『お前、誰?』は失礼すぎないー? 沢石咲果ですけどー」

 不機嫌そうに口元を尖らせる彼女に、僕はクラリとめまいを覚えながらも「ごめん」と小さく謝罪の言葉を口にした。

 確かにそうだ。目の前にいるのは、確かに咲果に間違いない。顔のパーツ、小さい身長、ほっそりとした手首に白い肌。間違いなく、僕が今まで同じ時間を過ごしてきた沢石咲果だ。
 だけど何かが僕の中で引っかかる。何かが〝違う〟と警笛を鳴らす。
 さらに彼女は、なんでもない様子でコートのポケットからスマホを取り出したのだ。壊れたからと僕の前では一度も出したことのなかったピンク色のケースにおさまる、僕たちの三種の神器。

「……直ったの?」
「なにが?」
「スマホ、壊れてるって……」

 眉を寄せた咲果は何かを考えるようにして、それから、「ああ!」と頷いた。

「直ったの! 昨日ね、奇跡的に復活っていうか」

 そう言った咲果は、ひらひらとスマホを僕の顔の前で振りながら横をすり抜け、自分の席へと腰を下ろした。何も言えずにいた僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 結局、僕はその違和感をずっと拭えないままにその一日を終えた。

 咲果は確かにきちんと咲果ではあった。その名前でクラスメイトたちが彼女を呼び、彼女もまたそれに答える。楽しそうに笑い、ころころと表情を変える。どこからどう見ても咲果なのに、それでも僕にはどうしても、彼女が知らない誰かに見えてしまう。
 そしてその日以来、夜の公園に彼女が現れることはなくなったのだった。